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1940年東京に学ぶ「オリンピックの意義」

一体何をしているのか――。
こう声を大にして言いたくなる。
日本オリンピック委員会JOC)が、オリンピック招致をめぐり
約2億円の使途不明金が発生していることについて
竹田恒和会長は、16日参議院参考人として出席。
国際陸連への票集めに使用したのではないかとの疑惑を
否定したうえで「(広告代理店大手の)電通の紹介で送金したもの」と答弁した。
送金先はシンガポールコンサルティング会社で、国際陸連前会長の息子の友人が経営しているという。
フランス検察はこの事態を受け、前会長がパリで多額の現金を引き出していたとして
捜査を開始したようだ。前会長は当時、国際オリンピック委員会IOC)委員を務めており
オリンピック開催の決定に影響力があったとされている。


鈴木明氏『「東京、遂に勝てり!」1936年ベルリン至急電』という書籍がある。
実は1940年、日本はオリンピック開催国に選ばれたことがある。
実に意義のある大会となるはずだった。
この「幻の東京五輪」はアジアが一丸となって実現させたものだからである。
当時、支那事変の真っ最中、わが国と国民党政府とは交戦状態にあった。
だが、中華民国IOC委員王正廷は
「私はアジア人の一人である。歴史的に光栄あるオリンピックが史上初めてアジアで行われることを
考えると、一アジア人として東京を支持せざるを得ない」と発表。
フィリピン委員も郵便ではあるが、日本開催を支持した。
フィリピンでは、「第9回極東オリンピック・マニラ大会」が行われ
満州国の参加も予定されていたが、中華民国政府の抗議により
日本か支那かどちらかが折れなければ、大会は成功とはいえない状況となっていた。
結局、日本側は満州の代表を派遣せず、としたことで支那も矛を収め
フィリピンはメンツを保ったのだった。
大統領秘書室長のホルヘ・ヴァルガスは大変喜び
「この感謝の気持ちは絶対に忘れない」と日本側に伝えたのである。


だが、最有力候補はイタリア・ローマであった。そこで副島道正伯爵、IOC委員の杉村陽太郎らは
イタリアに渡り、統帥・ムッソリーニに直談判した。
副島伯爵は「東京でオリンピックを開催することは、ヨーロッパやアメリカの青年にアジアを見てもらうためであり
アジアとヨーロッパ・アメリカが共に手を取って、世界平和に向かうことでもあります」と熱烈に訴えた。
ムッソリーニはただ一言「そうしなさい。貴方の申し出はよく理解した」と答え
あっさりとローマの辞退を了解した。


1936年ベルリンで行われた開催都市投票。
残ったのはフィンランドヘルシンキと日本の東京。
36対27で見事、東京に決まった。
日本国民はこの報に熱狂した。アジア初のオリンピックが東京で
しかも皇紀2600年という節目の年である。
さっそく、日本では大会に向けて準備が進められたが、戦線が拡大する中、1937年8月帝国議会
東京オリンピックは断念すべき」と主張した人物が出てきた。政友会の河野一郎代議士。
あの河野洋平の父である。最初は「このような時だからこそ開催すべき」と主張していた川崎克代議士らもいたが
情勢が変わっていくのと比例してその数は少なくなっていき
1938年7月、木戸幸一厚生大臣が正式に中止を発表したのである。


さて、これには後日談がある。
フィリピンのIOC委員であったホルヘ・ヴァルガス大統領秘書室長は大東亜戦争時に
日本統治下でフィリピンの要人を務めていたとして逮捕されたものの無罪となり
戦後は大学で教鞭をとりながら、IOC委員の資格も保持していた。
1959年、次期開催都市を決める投票で、フィリピンは再び東京を選んだ。
ヴァルガスは家族5人を引き連れ、戦後成長著しい東京の開会式に出席した。
彼は、東京を最後まで見捨てなかったのである。
日本にとって大恩人といえるであろう。


今やオリンピックは、利権と政治の道具となっている。
東京オリンピック決定当時も大なり小なり政治的な駆け引きはあったであろう。
しかし、これほど情熱を持って開催にこぎつけようと努力した人々の思いは
果たして今のJOCに引き継がれているのだろうか。
甚だ疑問に思わざるを得ない。
JOCはぜひ、オリンピックの意義について今一度原点に立ち返り
国際社会に対して素晴らしい大会である、と胸を張って言えるよう努力してもらいたい。


参考図書

1936年ベルリン至急電―「東京、遂に勝てり!」

1936年ベルリン至急電―「東京、遂に勝てり!」