白雉日報社公式ブログ

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両陛下と国民をつないだ「あるもの」

本日は未曾有の大災害である東日本大震災から5年。
約1万6000人の死者、2500人の行方不明者を出し
いまだに約15万人もの人々が避難生活を余儀なくされているが
そんな本日、国内各所で追悼イベントが行われた。

多くの人が詰めかけた仙台市役所前


東京都の国立劇場で執り行われた政府主催の追悼式典では
天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ奉り
安倍晋三首相による式辞のあと、恐れ多くも天皇陛下から我ら民草に
親しくお言葉を述べられた。
以下に全文を掲載し奉る。


東日本大震災から5年が経たちました。
ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者・行方不明者が生じました。
仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。
このような津波に対して、どのような避難の道が確保できるのか暗澹あんたんたる気持ちになったことが思い起こされます。
また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。
このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者
さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。
地震津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。
事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。
こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。
また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。
あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。
この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。
しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。
特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で
いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。
困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、1日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう
これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。
この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに
それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。
今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ
被災地に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。


仙台市内で執り行われた仙台市宮城県主催の追悼式でも政府主催の
追悼式が中継され、天皇・皇后両陛下の国民を慈しみくださるお姿に
目頭を押さえる人も多く見られた。


ところで、陛下はお言葉の中で「仙台平野を黒い壁のような」という表現をなさっておいでである。
実は、平成24年の「歌会始の儀」において、天皇陛下
津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」
とお詠みになった。両陛下は平成23年5月に被災地をご覧遊ばし
その惨状に御心を痛められたが、津波の時のような黒い禍々しい壁と違い
実に対照的な表現である。「天皇陛下はいつも被災地のことを考えておいでだ」とは
式典に参列された方の談。
また、壇上は被災地の花で飾られ、今年からは福島の花も供えられるようになった。
花の中には、スイセンの花もあったのだが
実はスイセンの花といえば、有名な話がある。
平成23年4月、仙台市の避難所を行幸啓遊ばした両陛下。
この時、避難していた主婦がわざわざ津波で大きな被害を受けた自宅の庭から持ってきたという
スイセンの花を皇后陛下に手渡した。
皇后陛下はその花を大事そうにお持ち帰りになったのである。
皇后陛下スイセンの花は、皇室と国民のつながりを示すエピソードの一つとなった。
政府担当者が、そのことを知ってか知らずか、今回の式典では「おや…」と思うような
一致は相次いだのである。


仙台市では、復興5年を一区切りとして基本計画は終了する。
しかし、宮城県の復興計画は10年間であり、残りの5年は復旧・再建から成長期へと移る過渡期だ。
だが、もちろん今現在でも復興途上にある人々のケアを忘れてはならない。
「5年という区切りだからと忘れられるのが一番嫌だ」
これが被災地で異口同音に語られる言葉である。