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数字にまつわるこんな話

弊社主筆・菊地が32回目の誕生日を迎えた。
32歳といえば、米国の実業家であるアンドリュー・カーネギー
ユニオン製鉄所を創業し、ようやく経営者としての道を歩み始めたころである。
また政治家で実業家の五代友厚が明治政府で参与職外国事務掛を命ぜられた時期であり
後の成功者がいよいよ決起したあたりなのであった。
すなわち、この30代という歳は青年として地盤を固めるにちょうど良い年代であり
無為に時を過ごすのは非常にもったいないといえよう。


そんなわけで、菊地は今年資格取得に向け勉強中である。
例えば既存の資格に加えFP技能士2級を狙うも良し、証券外務員一種を狙うも良し
と言い出すと、ガチの国家資格になってしまうので
ライフワークでいうところの神社検定(神道文化検定)弐級の合格を目指したい。
参級は以前取得したので、さらにその上を目指そうというわけだ。
この神社検定は壱級が最上級なので、弐級でも大したものだと思うわけだが
とにかく、そうやって自分を高めていくことは重要である。


話をずらしてしまうと、「弐」といえば数字の二と同意であることは周知であろう。
官職名で弐というと、2番目すなわち権と呼ばれるものに相当する。
例えば、太宰府の官職に当てはめてみよう。
太宰府の長官は、太宰師(そち)である。皇族方が師に就任なされると
「師宮(そちのみや)」と呼び、区別したようだ。
その下に権師という役職があるのだが
その下に「大弐」と「少弐」が置かれていた。
権師には実権はなく、やむを得ない場合や罪を犯した人が左遷される形で就任するので
あまり名誉な職ではなかったようである(例、菅原道真など)。
九州の少弐氏は武藤氏が太宰少弐に任じられたことから始まっており
戦国時代まで続く名門となった。
太宰府にはおよそ50人の官人が在庁していたようであるが
甲士はどれほどであろうか。陸奥国の守護に当たっていた多賀城では、8世紀には7団10000人が
動員できたといい、9世紀に入っても7500人を動員したという。
支那において500人を「旅」といい、それを4つ合わせた2000人を「師」と呼ぶ。さらにそれを5つ合わせた1万人を
「軍」と呼ぶので、律令制下のわが国においても、それは同様であったと考えると辻褄は合う。


このように、古代のわが国においても
数字は非常に重要なものであり、それは現在の日本人にとっても
同じことなのである。