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対ソ戦は総敗北だったのか?

間もなく70周年の終戦記念日を迎える。
帝国政府は、物の見事に敗北した。
本土を焦土にされ、原爆を落とされ、多くの領土を失い
我が帝国はキレイさっぱり負けたのだ。


とはいえ、8月15日をもって我が帝国政府が消え去ったわけではない。
すでに周知のとおり、9日にソ連対日参戦があり
しばらくの間北部で戦闘が続くことになる。
帝国政府は駐ソ大使、佐藤尚武をしてソ連を仲介とした
和平交渉を模索していた。帝国政府は、ソ連政府に対して親書を
送付。近衛文麿元首相を特使として交渉に当たらせようとしていた。
ソ連政府側は散々返答を遅らせ、ようやく佐藤大使をソ連外務省に
呼び出した。そこで待っていたのは、突然の宣戦布告であった。
しかも、日本大使館の電話線は切断され、本国政府に対する連絡も妨害するという
周到さである。


一方の満州防衛を担当していた関東軍は、すでに国境付近に
大規模なソ連軍部隊が集結しつつあることを掴んでいた。
関東軍100万といえば聞こえはいいが
精鋭部隊は南方戦線に抽出されており
実際は兵器は旧式で、武器も弾薬も不足している有様であった。
そこで関東軍は、在満居留民への被害を抑えるために野戦築城を開始していたわけだが
奇襲といっても良いほどのソ連軍の侵攻は
まさにドイツのバルバロッサ作戦を彷彿とさせるものであった。
さて、テレビや新聞などでは関東軍が居留民を見捨てて
我先に逃亡したかのような描かれ方をされているが
実際にはどうであったのか。
実は、ソ連軍は圧倒的機械化師団をもって侵攻しながらも
局所的に粘り強い抵抗を受けていたのである。


例えば、満州北東部の虎頭要塞。ここには第15国境守備隊が守っていたが
多数の居留民も収容。合計1800人がここで篭城戦を展開した。
ソ連軍は同要塞に対して攻勢をかけたものの、ついに陥落せしむることが
できなかった。また内モンゴルのアルシャンを守備していた
第107師団は大きな被害を受け、孤立無援になりながらも戦闘を続け
8月27日に関東軍の伝令により終戦が知らされ、武装解除した。
さらに北朝鮮には第34軍が布陣していたが、ここにはソ連の大規模な部隊が
侵攻してこなかった。そのため逆に海路から上陸してきたソ連軍を追い詰め
決戦準備を進めているうちに終戦となった。


さらに、千島列島では第91師団2万人以上が守備についていた。
千島列島ではこれまで戦闘らしい戦闘がなく、無傷であったため
装備が貧弱であった以外は戦力としてはまともであった。
8月15日、占守島の第91師団の一部は、ポツダム宣言受諾を知り
武装解除を進めていた。18日未明にはソ連軍が同島へ上陸作戦を実行。
第91師団は慌てて残っていた武器でもって応戦、自衛戦闘に移行した。
帝国陸軍樋口季一郎第5方面軍司令官の「断固、ソ連軍を撃滅すべし」と
命令を受けて上陸したソ連軍に猛烈な反撃を開始。
戦車第11連隊も池田末男連隊長車を先頭にソ連軍に突入し
上陸地点の竹田浜まで後退させる。追い詰められたソ連軍は万事休すかと
思われたが、第91師団は積極戦闘を停止していたため、これ以上の
大規模な戦闘はなく、23日に第91師団の堤師団長が降伏文書に調印
千島列島のソ連軍はほぼ戦果を上げることができず
第91師団はソ連の南下を阻止するという大殊勲を上げた。


このように、関東軍は総敗北というわけではなく
局所的にはソ連軍に対して一矢報いた部隊も存在する。
千島列島のように、むしろソ連軍を追い詰め、優勢な中で
降伏するという珍しい現象も見られた。
対ソ戦は15日以降も続く。外地の将兵にとって15日からが
地獄だったのである。