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仙台空襲から70年、今の豊かさは昔の苦労あってこそ

昭和20年(1945)の今日は、米軍が仙台市に対して大規模な空襲を
行った「仙台空襲」の日である。
仙台市には、第二師団司令部があったほか、歩兵第四連隊などが駐屯しており
東北における拠点の一つではあった。
だが、実際に米軍が実施したのは軍事目標に標的を定める
「精密爆撃」ではなく、民間人だろうが何だろうが爆撃する
「無差別爆撃(絨毯爆撃)」であった。
午前0時頃から行われた空襲で、中心部はほぼ焦土と化し
約1000人(犠牲者数については700〜2000人まで諸説ある)
が殺害された。その大部分は一般市民であった。
国宝の瑞鳳殿も被災し焼失、現在建っている瑞鳳殿は復元である。
終戦までわずか1カ月、わが国政府はソ連を仲介とした和平を探っている時期であり
必要の無い犠牲であった。


戦後70年が経ち、東日本大震災などを経験した我々は
仙台空襲を遥か昔のことと忘れ去られつつあるように感じる。
しかし、なぜ大勢の人々が死ななければならなかったのか
今後攻撃を受けないためにはどうすれば良いか、まだ議論は尽くされていない。
「軍隊がなければいい」と左派。
「十分な軍事力があればいい」と保守派。
だが、わが国本土への空襲は、軍事施設があるかどうかではなかった点
留意する必要があるだろう。
ただの漁船でさえ、沖に出れば戦闘機から機銃掃射を食らい
潜水艦から主砲で撃沈されるケースがあったほどである。




東北中枢都市として発展し続ける仙台


今や、人口107万人都市に成長した仙台市
空襲の傷跡を感じさせるようなものはもはや存在しないが
戦後の大規模な復興事業により、城下町仙台市は道路幅が広くなり
高層ビルも次々に建設された。
これが空襲の被害を受けなかった城下町であれば
駅前中心部といえども不自然に狭い道路や一方通行の道が目立ったことだろう。
今の整ったインフラや緑と都市部のバランスのとれたまちづくりは
空襲の後に行われた不断の努力の成果なのである。