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天皇皇后両陛下、パラオへご到着

畏れ多くも天皇皇后両陛下におかれては
パラオ共和国にご到着遊ばし、レメンゲサウ大統領夫妻の
歓迎をお受けになった。
パラオ共和国の首都があるコロール島は、第一次世界大戦後の
ヴェルサイユ条約に基づき、国際連盟から委任統治領に置かれ
わが国の南洋統治の要となる南洋庁が置かれた。
南洋地方の開発は南洋興発が主体で、リン鉱石の採掘や製糖事業が行われた。
大東亜戦争が始まると、パラオ諸島も戦火に巻き込まれ
ペリリュー島アンガウル島において米軍が上陸
し烈な攻防戦の末、1万2000人を超える日本軍将兵が散華し
米軍将兵およそ1500人が命を落とした。
特にペリリュー島においては、上陸途中の敵を一気に攻撃する
「水際攻撃」を禁止し、洞窟に潜んで敵の出血を強いる持久戦を
採用。これにより米軍は島の完全制圧に二カ月もかかったことから
硫黄島の戦いにおいても、この戦法は採用された。


とはいえ、最前線で戦う将兵は敵の砲撃にさらされながら
じっと我慢しなければならず、その恐怖たるや尋常ではなかった。
もちろんそれは米軍とて同じであり
ユージン・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』では
ペリリューはこれまで経験してきたどの戦場よりも地獄だったと
記述している。
米軍は本質的に機動装甲戦や要塞戦などには無類の強さを発揮するが
後のベトナム戦争イラク戦争にも見えるように、ゲリラ戦、ジャングル戦を
得意としていなかった。横を歩いていた戦友がどこからともなく放たれた銃弾により
倒れた時の恐怖といったら想像するに余りある。
もちろん、我が軍もそのような持久戦がいつまでもできるわけではなく
物量で押しつぶす米軍の攻勢の前に、じりじりと押されていった。
それでも、二カ月粘ったというのは驚異的な攻防戦であり
新聞では連日のようにペリリューの戦況を伝え
昭和天皇も「ペリリューはどうなったか」とお訊ねになるほどであった。
ご嘉賞*1も複数にわたった。
とはいうものの、最前線で戦う将兵はまさに半死半生の最中であり
幕僚は「それより弾薬をくれ!」と叫んだという。
弾薬、食料、医薬品は欠乏し、苦しみの最中にあって
「潔く玉砕させてほしい」という将兵も多かったが
守備隊司令部ではあくまで玉砕を禁止した。
生きることが死ぬことより苦しいという、今の我々では考えることも難しい
状況であった。


現在、天皇皇后両陛下は遠く離れたこの島に慰霊の御旅にいらっしゃっている。
我々日本国民は、これを機会にパラオで何があったか
勉強することを推奨する。
実は僕もペリリュー島を訪れたいと常々思いながらも行けていない。
ぜひ一生に一度は現地を訪れ、慰霊を行いたい。

*1:天皇が部隊の軍功をお称えになり下賜される文書