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返り討ちに遭っていた!九州方面のB-29

米軍の無差別爆撃により、約10万人の無辜の命が
無惨に奪われた東京大空襲から、70年の節目を迎えた。
わが国に対する無差別空襲は昭和20年頃から本格化したが
その中でも最大の無差別空襲であり、史上最大規模の虐殺事件である。


勘違いしがちであるが、サイパン島が陥落してから
空襲が始まったと言われているが
この時はまだ、軍需工場や軍事施設などに絞った「精密爆撃」が
行われており、民間への被害は比較的抑えられていた。
さらに、支那方面から九州地区への空襲も行われていたが
これらは基地航空隊や高射砲部隊の迎撃により
手痛い反撃を受けていたのである。
なぜ、九州方面の空襲は反撃を受けたのだろうか。
2014年6月の『歴史群像』「本土防空戦」によると
その要因が2つあると考察されていた。
1つは、空襲コースである。九州への空襲コースは
支那の国民党支配地域から発着、大陸を横断して黄海を渡り
九州に至る。
だがその間には日本軍支配地域があり、さらに済州島には
対空レーダーが設置されていた。
そのため、九州へ爆撃を行うB-29の編隊は、早い段階で発見され
本土防空部隊に迎撃態勢を取らせる時間的ゆとりを与えていたのである。
九州方面の防空部隊は、練度や数ともに充実しており
それらがB-29を迎撃したのだから、まさにバトル・オブ・ブリテンの様相を
呈していた。その割に、最重要目標の一つであった八幡製鉄所は空襲で
稼働停止に追い込むことができなかったのである。


一方、東京方面はというと、サイパンと東京の間には小笠原諸島があり
対空レーダー網もあったものの、B-29の編隊を補足したところで
それがどこに向かうのか、その段階で把握することは困難であった。
九州方面は大陸から済州島という二段構えができていたものの
東京方面で対空レーダーは小笠原諸島しかなかったのである。
また、富士山にもレーダー施設を、という構想もあったものの
これは実現せずに終わっている。
防空部隊もまた、幅広い展開が必要であった。
だが、帝国陸海軍の本土防衛部隊は、物資や数ともに不足しているのが現状で
来るべき本土決戦に備えなければならないため、房総半島から東海道まで
幅広い部隊展開が必要であった。
部隊が分散配置されていたため、帝都の集中防衛は薄くならざるを得なかったのだ。
帝国陸海軍では、総力を挙げてB-29を撃退すべく
体当たり攻撃も行われた。高高度を飛行するB-29には戦闘機が追いつけず
時間をかけて追いつけたところで、「超空の要塞」の対空射撃で撃墜されてしまう。
であれば、飛行機もろともぶつけるしかない、という発想になったのである。


だが、不幸なことに
米軍側は民間人の命さえも軽視し始めていた。
精密爆撃では高高度からの爆撃の効果が現れない上に
ますます帝国陸海軍の意気は上がるばかりである。
そこで考え出されたのが、カーチス・ルメイによる絨毯爆撃であった。
3月10日、住宅地が密集する昔ながらの下町が標的に選ばれ
最新式の焼夷弾により、下町はあっという間に火災に包まれた。
まさに生き地獄の様相を呈していたこの空襲では
貴重な現場写真が警視庁のカメラマンにより撮影、保存され
現在大虐殺の証拠の一つとしてさまざまな機会で活用されている。
ちなみに、帝国政府は3月22日、中立国スイスを通じて米国政府に対し
抗議を行っている。
帝国政府は、あくまで取るべき外交手続きを経て
無差別爆撃の正当性を認めない旨はっきりと述べているのである。
犠牲になったのは、無辜の国民がほとんどだ。
再びわが国が戦闘に巻き込まれることのなきよう、防空態勢を固めることが喫緊の
課題といえるであろう。
改めて、犠牲になった10万人の忠良なる国民に哀悼の意を表したい。