白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

金沢城周辺は神社のパラダイス!

生活欄から引き続き、神社のことがらについて書いていきたい。
今回、金沢市内で巡った神社は5社。いずれも金沢城周辺に位置する。
最初は、石川県護国神社から。

上の銅製の鳥居が護国神社っぽさを感じさせる。
そしてすぐ脇が駐車場・・・。護国神社に来る人はあまりいないが
兼六園が隣なので、そこには外国人観光客がたくさん来ている。
支那人が多いかな。あと欧米。支那人たちが護国神社を見たらどう
するんだろうか・・・なんて考えてしまう。朝鮮人みたく
放火しようとはしないだろうけど。
それはさておき、石川県護国神社は、戊辰戦争から大東亜戦争までの
間で殉国した御霊4万5千余柱をお祀りしている。
特に、第9師団は日露戦争奉天会戦支那事変で上海・南京・徐州
と転戦し、その武勲は燦として光り輝いている。
大東亜戦争では、沖縄防衛の中核として期待されたものの
台湾に転出。幸か不幸か、一度も交戦することなく終戦を迎えた。

とはいえ、石川県出身の多くの方が散華されている。
社務所の中には、散華された方々の写真が展示されているが
多くの方がフィリピン周辺で戦死を遂げられていることに目が行く。
特に戦争末期のフィリピン防衛戦によるものが多いようだ。
自然に頭が下がり、胸に熱いものがこみあげる。
ご朱印をお願いしている間に、絵馬を見て回ったら
「日韓友好 日中友好」と、まぁいけしゃあしゃあと書いてある
ものがあるではないか。頭に来たので、「わが国に仇なす国を攻めよかし」
と書いた絵馬を重ねてやった。


さて、次は金沢神社である。

この神社は、護国神社からとても近い場所にあり
徒歩で5分程度という非常に近いところである。
1820年加賀藩主・前田斉広により建立されたのが最初である。
それ以降、竹沢御殿(現・兼六園)の鎮守として前田家の崇敬が厚かった。
祭神は、菅原道真、白蛇龍神など。なぜ道真かといえば
前田家は菅原氏とされているためである。
まぁ・・・そんな根拠はないんだけどね。

社殿はコンパクトながら、朱塗りで格式の高さを
表しているものである。とはいえ、やはり江戸後期ということもあり
瓦屋根を用いている。この瓦には、前田氏の家紋である梅鉢紋が
入れられている。祭神が菅公ということもあり、学問の神様として
有名だそうである。


そして次、石浦神社である。
これも近くで、百万石通りの坂道を下っていき
左手にある。これも徒歩5分ほど。

この神社は、もともと三輪の氏人が大物主を勧請し
三輪神社として建立したのが最初とされる(諸説あり)。
どういう経緯かは不明だが、その後に長谷観音と号し
安土桃山時代には長谷寺、江戸時代には長谷大権現と称した。
明治に入り、神仏分離令によってこの神社は
この地域の「石浦郷」から石浦神社に改めた。

ここも瓦葺きの屋根である。そもそも、ここに三輪神社を勧請したのは
なぜであろうか。この石浦神社が三輪神社であった時に
延喜式神名帳に載っており、格式の高い式内社であるといえるのだが
長谷寺になった経緯もわからず、その年代も不明なため
それが本当であったのかもわからない。
ただし、この地が石浦郷であることから、多くの石浦姓を輩出した
ことがあるらしく、「全国石浦サミット」なるイベントをやっていた。
実はそれほど多くはないらしいのだが・・・。


そんでもって次である。
尾山神社は、わかりにくいかもしれない。
ただ、金沢城沿いに歩いていくと、間違いはないであろう。

これが神社の神門である。え、神門?
そう、これは1875年にオランダ人建築家、ホルトマンが設計し
建てられた。明治期の建築物で大変貴重なものとして
国の重要文化財に指定されている。
神社の祭神は、前田利家と、歴代藩主だ。
なので、前田家ゆかりの地を訪れたいという方は
ここを訪れると良いだろう。

社殿は、瓦葺きで破風も立派なものだ。
社紋が菊の御紋になっているのは、官幣社であるためだろうか。
本来であれば、前田家の家紋がそのまま入るはずである。
また、神門が西洋風建築であることは極めて珍しい。
確かに、近代の偉人顕彰型神社というのは、そういうところが
柔軟である。だからといって、本来はキリスト教建築で使われる
ステンドグラスを用いるとは、実に型破りな建築であるといえよう。



最後になった。このへんになると、時間もなくて
非常に焦りながらの神社めぐりである。
幸運にも、場所は尾山神社から歩いて近い場所だったのだ。

次は尾崎神社である。規模はそれほど大きくはないが
朱塗りの神門に、三つ葵は徳川将軍家を彷彿とさせる。
それもそのはずで、ここの祭神は天照大神東照大権現である。
東照大権現は、言わずとしれた徳川家康のことだ。
1643年、4代目藩主の前田光高が東照大権現社として建立したのが最初。
だが、実は東照大権現というのは仏教的な名前の付け方である。
そのため、明治に入ってから尾崎神社に改称した。
さすがの家康も、明治維新になってからの扱いが一気に下がる。
本殿は江戸初期の建築ということで、国の重要文化財に指定されている。

これも瓦葺きの小さい社殿に落ち着いている。
北陸の日光といわれるだけあって、コンパクトながらも
その建築は荘厳さを感じさせる。特に段組やその周囲の彫刻は
江戸初期にしかみられない複雑さだ。


さて、ここではご朱印めぐりの方とお会いした。
聞くと、愛知県からお越しだそうで、僕とは反対ルートで
回っているようだ。
なので、ここから護国神社までのルートを教えたり
イベントなど情報交換した。こういう出会いも
神社めぐりならではだろう。