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日本第一党東北地方の何でも屋さん。

大話新聞2回目01

これは10.27に放送された
台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)
が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。
なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ
写真ものっけていきます。
これは第2回目です。


前回はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/kick/20090419


司会「引き続き見てみましょう。1907年に石川欽一郎が台湾に
   やってきて、国語学校で西洋画を教授しました。
   台湾での西洋画の啓蒙者です。これも重要だね、なぜなら
   これは台湾を西洋化させる第一歩です。これは芸術でしょ。
   次は宝くじが発行中止に、すみません。さっきは勘違いした。
   3年じゃなくて3回だけだった。
   (5期なんですね)
   はい、2年目で中止されたんです。そう、次を見てみましょう。
   台北市上水道工事が着工されました。これは日本人が何を重要視
   したか明らかです。日本人は衛生を重視しました。
   これは疫病を撲滅するために重要な一歩ですね。
   上水道工事が着工した。次に、本年統計。すなわち1907年に
   全台湾の人口は310万8010人となった。
   日本人は本当に凄かった。なぜなら、一桁まで計算したね。
   10人まで計算した。もちろん、私はこれが概略な統計だと
   わかっています。しかし、中国はまだ清朝の時期ですね。
   台湾に来て12年間ですね、これで人口がわかった。
   これが一つ目。二つ目は、100年以来台湾はどれだけの人口が
   増えたんでしょう。2000万人です。その時は300万人だったでしょ。
   見てください。1907年に300万人だって」


王定宇「実は日本人の統治基礎はまだ固まっていなくて、台湾人は
    まだ彼らと戦争をしていたでしょ。佐久間を台湾に行かせて
    鎮圧する必要があったでしょう。しかしその年は、弘儀さん
    はいくつか重要なことを読んでくれた。
    日本人は上水道のことを重視しました。一部の台湾人はまだ
    反抗することを企んだのに、日本人は上水道を建設した。
    これは、それ以前に外国人が設計し、始まったことを意味
    しています。計画的に進行しました。
    第二に、1907年は台湾医療史にとって重要な年です。
    元々、こちらは荘永明、荘医師の本で私は彼がたくさんの
    台湾のことにかんして整理しているので、感心しています。
    ここにおもしろいタイトルがあります。
    これは『台湾淪日』というもので、「淪」は陥落を意味する
    マイナスな用語ですが、これは日本に占領されたことを
    意味しています。しかし、病院創始、つまり病院がその時
    から設立されました。1907年がなぜ重要かといえば、日本人は
    台湾にやってきて、公医という制度を創立しました。
    公医、公共医師制度ね。公共医師制度は1907年までに発展して
    総督府は、総督府医学校を創設するという命令を下して
    後に台大医学院の前身になりました。これが1907年。
    ちなみに1907年にもっと重要なのは、昔の台湾女性が子どもを
    産むことについて、まるで地獄にいっぺん行く。死ぬという
    覚悟がいりました。生まれた子どもの扶養事情は別としてね。
    日本人は1907年に、総督府は本島人、つまり台湾人産婆講習条例
    を発布しました。彼らが助産を行う時は、医学の教育を
    受けないといけない。つまり台湾人の子どもへの健康について
    大きく影響をおよぼしました」


司会「なるほど。あなたが健康のことを言ったので、私もこれは
   重要だと思う。これを見てください。これは1910年の写真です。
   

   1910年、これは何ですか?台北新起街市場内の冷蔵部です。
   冷凍庫、忘れないでください。1910年はまだ清朝ですよ。
   日本人が来てから台北市で冷凍庫ができました。
   冷凍するのは、どういうものを冷凍するのか。
   ここで冷蔵は肉類が冷蔵できると書いています。
   ここにきちんと書いてある。肉類とか品物とか全部ある。
   預かることもできるよ。衛生を重視し始めたことを意味するでしょ。
   昔、台湾で物を置いたらすぐ暑い台湾ではどうなるだろう?
   腐る、カビが生えるとか食べたらきっと健康に良くない。
   つまり私は当時の台湾人の寿命はきっと長くはないと思います。
   私は爺さんたちが40、50代で亡くなると言ったのを
   聞いたことがありますよ。39歳とかそのあたりです。
   (鄭成功は39歳で亡くなった)国(棟)さんのような
   長生きの人が少なかった。
   (一同笑い)
   本当ですよ。当時の衛生環境と医療技術がよくないから
   この年で老人になったわけです。私は小さい頃に父と一緒に
   牛車に乗って豚肉を買いに行く時、そこの精肉店の店主は
   田舎だから、父に○○さんが亡くなったと話した。
   父曰く「本当かい?何歳だろう」
   店主曰く「58歳だ。58歳で亡くなったね」
   その時はどんな病気に罹っても知らなかった。
   結局、店主は「そういえば私たちも五十路になったね」
   この意味わかる?ヤバイでしょ?(笑)
   つまり考えてください。当時は「人生七十古来稀なり」
   があったんでしょう。70歳の人が少なかったんでしょ。
   見てください、つまり上水道、医療を除いて、なんだっけ。
   冷蔵ですね、しかも見てください。営業時間は午前6時から
   午後12時まで。18時間も営業していましたね。
   つまり、これをきちんと見れば重要でした。そして製氷技術が
   いりますか?使用者も冷蔵する概念がいります。
   はい、徐先生が補足してくれます」


徐永明「実は私が前述した数値が重要だと思います。
    一地方を現代化させるために日本人はどれだけの
    資金を投入したのか、例えば製氷所設置するかどうか
    一体この需要はあるのかという統計が必要です。
    私はこう思います。日本軍が台湾にやってきました。
    前述した軍隊について、実は当時の日本軍はアジア最強でした。
    清国に勝って、日露戦争にも勝ちました。
    しかし一番重要なのは、日本人が現代化、特に統計の概念を
    導入しました。なぜなら、1905年から5年ごとに国勢調査
    を行いました。従って、前述した300万人は1940年に500万人
    あまりに成長しました。1946年以降、国民党が台湾にやってきたとき
    およそ600万人でした。日本人が統治した期間で、人口はおよそ
    2倍に倍増しました。300万人あまりから600万人あまりまで。
    国民党がやってきたとき、国民党はまた200万人連れてきた。
    つまりこの過程は、日本人がここを統治する情報がわかっていて
    どれだけの資金を投入したか、どんなことをやるべきか
    わかっていた。これが現代国家のやり方だと思います。
    つまり台湾はいつ現代化したのか、数値などの情報を
    企画することに用いた時が現代化です」


司会「実は冷蔵部のことを考えていたら、大型の冷蔵庫のことだと
   気付いた」


王定宇「冷蔵庫より公共でしょう。つまり当時の台湾には、すでに
    午後12時まで営業する店があり、その需要があったので
    午後12時まで営業したことを意味しています。
    従って日本人はやってきて12年間で、冷蔵部が台湾の生活形態を
    清朝の古い時から一気に冷蔵庫のある時代に進歩させた。
    つまり私たちはこれらの外来政権を検証するとき、さっき
    原住民を殺すことについて、私が一方は原住民の勇気に感心して
    一方は日本人が統治する時の残忍さが見えるでしょう。
    しかし、私たちはこれらの措置を検証する時に、これらの
    計画やこれらの行いを見て、ご当地の住民にもっといい生活を
    与えたのか、これこそ「は勉生活(生活面でがんばる)」
    といえるでしょう。つまり冷蔵庫のことについて
    当時の台湾人は夜中に冷蔵庫から何かを持ち出す
    必要があったか?それが営業上の需要がいることを
    意味しています。(多分需要は少なかった)
    しかし1907年に、またある事が起こった。それは中学校
    台北中学校が独立で開校して、今の建国中学の前身に
    なりました。そして女子学校は数年後に開校しました。
    ちなみにその年に、濁水渓鉄橋が竣工しました。
    鉄道用の鉄橋でした。濁水渓鉄橋だよ。
    
    (さっき討論したね)はい、この鉄橋、つまり鉄道が
    着々と繋がり、まもなく全島に開通しました。
    この橋は未だにあったんだね、あるある。
    (本当に!?)
    つまり私はそれを見るだけで、まだ存在しています。
    だが使用していません。今言いたいのは
    (濁水渓鉄橋は100年も存在しているね)
    そうです。この濁水渓鉄橋は長さ2917メートル。
    3キロメートルに近い。つまり1907年に佐久間は原住民を鎮圧
    しましたが、その時の台湾人は日本人がやってきて
    12年間で、中学まで進学できました。
    医療教育については、総督府医学校がありました。
    助産師ができて、冷蔵庫ができて、鉄道建設もできていた。
    つまり台湾は、この背景のもとに進化したか退化したかを
    見ることができます」


司会「そうね。次を見ましょう。これが重要だ。
   ええと、1908年に三義―豊原間の縦貫鉄道が開通して
   重点はここ。キールンから高雄まで全線も開通した。
   キールンはどこ?台北の北のほうです。
   高雄はどこだ?高雄だよ、つまり台湾西部の縦貫鉄道が開通
   したのはいつ?1908年だよ。そこで、台中で盛大な開通式
   をやって、台中公園を整備した。
   つまりここで皆さんにご紹介したいのは、翌年は縦貫鉄道
   開通100周年です。鉄道局は慶祝すべきです」


呉国棟「ここで私は補足したい。三義―豊原間は山線のようです。
    これはなぜ慶祝すべきかというと、トンネルがあるから。
    見てください、それらのトンネルは未だに崩れていない。
    その山線はね」


司会「はい、百年前に台湾の縦貫鉄道が開通したね。私はずっと
   それが国民党の建設だと思っていましたよ」
   
   
徐永明「この前は新幹線が空間革命、一日生活圏だと言っていましたね。
    実は1907、08年に1日生活圏になっていました。台北から高雄
    まで昔は2,3日かかって今は1日のうちにいけます。
    おもしろいのは、100年前に縦貫鉄道ができましたが
    100年後すなわち去年に新幹線が開通しました。
    これで日本からの影響があるのは、実はこれらは
    日本の技術と日本の観念を含んでいるのです」


司会「正論だね。よし、次を見ましょう。
   初代目の北回帰線を指すタワーが落成しました。
   それは嘉義の水上駅のそばに設置されました。
   これも重要だね、これは何を重視したか。
   地理、経緯度、科学が重視されてますね」


王定宇「それが度量衡を統一するメリットです。精確に測量できます。
 そして台湾人に、自分が世界のどこにいるかを知らせました。」


司会「はい、次は1909年に台東卑南族の南志信は、総督府医学校を卒業して
   台湾で初の高砂族医師になりました。これは只者じゃないね。
   次は、瑠公(土川)が修復されて、台北で最大規模の灌漑システム
   になりました。
   瑠公はまだあるでしょ?
   (無い、覆われた。今の新生高架橋が瑠公を覆った)
   私が言いたいのは、まだ使用しているのか?
   (灌漑効果はなくなったが、まだ水が流通している)」