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南東北の雄・相馬氏とは何だったのかツアー

今日はくもり、やや冷える。
昨日の雨は凄かったが、その余韻を引きずっている感じ。
だから雨もポツポツきたし、地面もぬかるんでいた。


さて今日は神社崇敬者連合(略称・神崇連)で
南東北の雄・相馬氏とは何だったのか」
を実行に移した。
なかなかそっちのほうまで仕事で行くこともないのだが
亘理までなら何とか…。でも頑張って相馬まで行った。
亘理までいくのは、いろいろ方法はあるが下道を通るならば
岩沼まで4号線で行き、6号線からずっと南下するのが良い。


それで、まず最初に行ったのは亘理神社である。
亘理神社は亘理要害の中にあって、地図には載っていないかもしれないが
旧館公園にあるので、そこを目指していけば大丈夫だ。

鳥居は神明鳥居。とはいえ、随分あたらしい神社なので
こういう建築様式にはあまり当てはめないほうがいいかもしれないが。

社殿も瓦葺である。明治12年創建で、伊達成実を祭神として
祀っている、典型的な顕彰型神社である。
伊達成実は、伊達実元の長男として生まれた。伊達政宗の従兄弟という関係になるだろうか。
成実は、幼い頃から武勇の誉れがすさまじく、人取り橋の合戦や
周辺大名との戦いで奮戦。亘理を所拝領となると、亘理のまちづくりに着手。
現在の亘理町の基礎をつくった。
そんな成実が祀られているのが本社。
ちなみに、宮司さまがご朱印を書いてくださったけど
やけに俺の住所にこだわるなぁと思ったら
宮司さまが一高出身だそうで、あのへんは何でも知ってるってことだった。


次に向かったのは、子眉嶺神社である。
ここは6号をひた走っていると、でかい看板があるので
その通りに行けば迷うことはないだろう。

ちょっとこじんまりとした感じだが、実際は駐車スペースも広くて
敷地自体はとても広い。
この神社は、敏達天皇の御子を祀っていたが、大宝2年(702)に
仮宮を造り、延喜7年(907)に建立された。
で、式内社名神社、宇多郡総鎮守として厚い崇敬を集めてきた。

ここの祭神は豊受大神となっていたが、豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)のことで
豊受比売ともいわれ、稲荷神と同一視されることから、稲荷神社の一つといえる。
豊受大神は、天孫降臨天照大神がこっちにやってきた際
五穀を生み、美酒を献上したので、五穀豊穣・産業振興にご利益がある。
ここでも、もちろんご朱印をいただけました。
由緒正しいということもあって、氏子も結構熱心みたいですね。


その次は、相馬市に入っていよいよ相馬中村神社である。
ここは中村城跡なんだけども、とても状態が良い。
特に堀と土塁の保存状態は、なかなか他の史跡にないほどである。

これが入口だが、狛犬の代わりに馬の像になっている。
相馬といえば、馬産地として有名だし
相馬野馬追いなんかで、かなり馬といえば相馬っていう
イメージも浸透しているからだろう。

2頭の馬が柵の中を走り回っていたが、神馬というわけではなく
地元のNPO団体が、観光客の乗馬用にいるだけらしい。
すぐ近寄ってきて、とても人懐こい。

これが鳥居だな。
この神社は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)を祭神としているが
この神は天地開闢の際に最初に出現した神の一柱で、造化三神の一柱。
要するに、神社とかそういうレベルじゃない。
会社でいうと、天照大神が営業課長だとして、この神様は代表取締役とかそのへん。
だから逆に、何のご利益があるんだ?ってことで崇敬の仕方もわからず
祭神として祀る神社は少なかった。
その数少ない一つが、いわゆる妙見信仰という、神仏習合の一つの流れだ。
相馬氏は長らく妙見菩薩を信仰し、城内にも妙見門というのを作ったりした。

森に囲まれていて、暗かったのでちょっとブレたりしてるかな。
社殿はとても大きく、立派なものだった。
それに、雰囲気もあるだろうけど、静寂の中に自然のエネルギーを感じたね。
ここでももちろん立派なご朱印をいただけました。


次は相馬神社へ。

相馬神社は、同じく中村城内にあり、中村神社とは別である。
つまり、相馬中村神社は相馬氏が崇敬した神社。
一方、相馬神社は相馬氏初代当主の相馬師常を祭神としている。
だから宮司が兼任していたこともあったとのことだが
今は違うのだそうだ。

この神社は明治12年に創建された、顕彰型神社。
もちろん、ご朱印もいただけます。
ここの宮司さまは、県指定文化財になったのはいいが
現状変更が厳しいので、修復も何もできないと嘆いておられた。
その割に、県から補助金が出るわけでもないので、資金的に厳しいということだった。
しかも、来年は遷宮の予定もあるので、何とかしたいということだったが。
正直、神社の収入は初穂料や寄付、祈祷料でやりくりしている。
だから、人がたくさん来ればいいわけだが、相馬氏はその活躍の割りに
存在感がいまひとつ。
俺は、相馬氏は伊達政宗のライバルとしても評価が高いのだから
商工会議所や行政と連携してそれを広く知らしめるべきでは、と言ったが
どうにも腰が重いらしい。
確かに、相馬市のサイトなんか見ても、あまり広めようって感じしないよな。
せっかく今戦国ブームで追い風が吹いているのだから
相馬盛胤とか義胤で商品開発とかイベントをやれば、たくさん人が来ると思うんだが。



これで、一応相馬市の主要なところは行ったが
まだその周辺で逃したところがいくつかある。
ただ相馬まで下道2時間くらいで、それほど遠くないってことがわかったので
また行こうと思う。