白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

栗原に神社は多いが。

注・書いている途中2回ほど消えたので
今復元しながら書いてます。
数日かかるかもしれませんが、何卒お待ちください。


今日は雨。冷える。
朝はやや雲がかかっていた程度だったが
天気予報で「福島ではすでに雨。昼ごろには宮城でも降ります」なんて
言っていたが、まさにそのとおりになった。
お天気散歩さすが!


今日は、かねてより企画していた栗原への遠征を開始。
神社メーンだが、必ずしもご朱印にはこだわっているわけではない。
あー、つまり。大きいところに行きたい。ご朱印があれば貰いたい。
でもなければないでいいよ。そんな感じ。
てわけで、いきましょう。我らが栗原へ!

ルートは4号バイパスで栗原まで行って
そこからいろいろ回る予定。ということは、途中にあるバイパス沿いの神社には
寄る方針ということさね。
で、最初に向かったのは大衡村にある大衡八幡神社

これは典型的ないわゆる八幡鳥居。
この神社は、バイパスにしか面していないため、バイパスしか出入りできない。
なので、若干苦労するが、それほど交通量のない時間帯に行けば問題はない。

これが社殿。ここまで神社まわっていると、八幡神社だとこうこうってわかる。
八幡神社神仏習合八幡大菩薩となっている(八幡宮はわからんが)
屋根もたまに瓦を使っているところがある。神社で瓦を使うのは、神仏習合の神社か
或いは建て替えの時、神社と仏教の関係をよく知らずに建ててしまった時だ。
この大衡八幡神社は、天正5年(1573)に、大崎氏の家臣である大衡治部大輔の
氏神として勧請されたのが始めてである。
八幡信仰は、鎌倉時代に幕府が鶴岡に八幡宮を勧請し、厚く崇敬したことから
その後、諸国の御家人に広まった。
宮城の場合、奥州追討に来た源頼義や義家があっちこっちに建てたものが
残る場合もある。(坪沼八幡、生出森八幡など)
このの宮司の方は、実は以前お見かけしたことがあって
その時はどうも…なんてあいさつしたが、宮司さまは以前は
会社員をなさっていたってことで、第二の人生として神職を選ばれた。
ご本人は「親に甘えて…」と謙遜なさるが、とても良いことで意義深いことだと思う。
実家に戻ってきて、人のため地域のために日夜お祭りをされているわけだから
それは、地域の方も嬉しいだろうし、お父さんも息子が跡を継いでくれて
安心なさっていると思う。…とても良い出会いだった。


次に向かったのは、旧三本木町内にある音無湯殿山神社
神社といっても、鳥居もなく社殿もない。

バイパスから、とても狭く、どろどろの道を進むこと十数分の場所にある。
ここには湧き水があるというのだが、確かに沢があって道がぬかるんでいた。
社殿はなかった。だが、この自然そのものを愛し、また畏敬するという
初期神道の心地よさ!誠に気持ちよかった。
この神社は文政4年(1477)に奥州探題12代目の大崎義直によって
湯殿山の風景に似ていることから、勧請したとされている。
しかし、奥州探題12代目というと、イコール大崎氏なので
それの12代目ということになるが、斯波家兼奥州管領に任ぜられて
それ以降は大崎氏が世襲するわけだから、その12代目となると大崎義宣になってしまう。
しかも年代が100年くらい違う。
そうすると年代的に合致するのは7代目の大崎教兼か政兼しかないが
一体この12代目って数字はどこから出てきたんだ?


次は、4号からちょっとズレて、旧高清水町にある牟良佐喜神社。

典型的な八幡鳥居。なかなかに立派なもの。
社務所の類はなく、無人だが公民館が敷地内にあって
氏子に親しまれていることがわかる。

この村さ来みたいな名前の牟良佐喜神社だが
京都の紫野からこの地に分霊されたのが始まりだという。
しかし、祭神は高皇産霊神神産巣日神となっているが
紫野神社の祭神は大己貫命、事代主命奇稲田姫命であり食い違いがある。
案内板に創建年代は書いてなかったものの、算学の額や社殿の建築様式から
江戸中期から後期と思われる。


次は…えーと。鹿嶋神社。
この神社、国道4号からも行けることが後でわかったんだけど
道が狭いので、看板を頼りに行くしかない。

境内は小ぢんまりとしている。
社殿も、かなり小さいし、脇におみくじ売り場みたいなのがある。
ご朱印をもらおうと、社務所に行ったら宮司さまがおられて
しかも、中に入れていただいてお茶とかお菓子とか頂いてしまった。

この神社は康元元年(1256)に、ここに館を構えていた三浦三郎義成が
鹿嶋神宮より分霊いただいて、建立したのが最初。
宮司さまのお話では、この神社がある地域は「宮中」と書いて「ぐちゅう」と読む。
分霊していただいた鹿嶋神宮がある地域も宮中という地名だが
この神社を創建する際に、地名も一緒にもらってきたのではないかということだった。
ただ、そのまま使うのは失礼なので読み方をちょっと変えたんだそうだ。
他にも、神社の観光資源活用とかいろいろお話を聞いた。
でも消えてしまったんだよなぁ…。


次に行ったのは志波姫神社。
志波姫町ってあったじゃないですか、それはこの志波姫神社からとった。
だから凄い神社に違いない!と思って。
神社は田んぼのほぼ真ん中にある。リトルスターっていうコンビニに近いよ。

この八幡鳥居は新しいものだが、やはり立派だ。
で、この先の参道がとてもいい雰囲気だった。

ここが社殿。この神社は式内社のうちで栗原七座の大社。
神亀天平年間に創建されたということで、坂上田村麻呂も戦勝祈願に訪れている。
正保年間には火災に見舞われ、すべて焼失しまったが
伊達家よりこの地域を拝領した古内主膳が、社殿を建てて村の守り神とした。
ちなみに本殿は、県の有形文化財となっている。
ここは社務所もないし、無人だった。隣に大きなお屋敷があったが
誰もいなかった。


さて、うーんと、次は白山神社だ。
このへんは宿坊があったり、寺院があったりで不思議な雰囲気。
場所的には4号から近く、山をひたすら登っていく。

これが鳥居、かなり古ぼけている。
「三迫総鎮守」と書かれているのだが、どうなのだろう。

この神社の創建は不祥ながら、延暦23年(804)蝦夷平定のために
坂上田村麻呂が戦勝祈願をしていることが確認されている。
後に、源頼朝が平泉藤原氏を滅ぼした後に、ここに立ち寄り
那須与一扇の的を射る」の野祭を行った。
それが、平泉藤原氏の「延年の舞」と交わって「小迫の延年」となった。
実はその「小迫の延年」が国指定重要無形民俗文化財に指定されている。


そのあと、俺はがんばった。
栗原を東から西までひた走ったよ。
向かったのは鴬沢八幡。実はここ宮城県神社庁の神社紹介で載っていたため。
いやぁ、結構遠かったなぁ。

これが鴬沢八幡の社殿。社務所らしきものはあったけど
閉まってたし、無人だった。
案内板もなかったし、ネットで探したけど由来とかちょっとわからなかった。
ただ、やたら階段があった。


さて、今日のオオトリ。桜田山神社で締めよう。
鴬沢から結構近いようで、交差点に「←桜田山神社」とか小さい看板があって
わかりやすいのかわかりにくいのかわからない。
地図を片手にきょろきょろしていると…。

!?
なんだこのでかい鳥居は…これが新しく建てたというやつ?

これが本鳥居だと思うけど、これも新しいんだよね。
だからどっちが新しく建てたものかはわからなかった。
この神社は6世紀頃、狩野掃部之祐および久我大連が
武烈天皇を追想して建立したのがこの神社で、正式名称を山神社という。
社格は明治になってから村社になったのが初。

これが社殿で、栗原市有形文化財となっている。
確かに、普通の神社とは建築様式が違うよな。
神仏習合の影響は受けていないと思うんだけど
瓦葺きというのも珍しい。

こんな写真もあったりして…。
ちなみに、ぼくイケメンのお父さん?と思しき方に
御朱印をお願いしたら「うちではやってません」と断られてしまった。


いやー、くたびれたよ。
これにて栗原にくりば?志波姫神社とスタッフゥ〜!ツアーは
一段落。また見逃したところは行くかもね。