白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

神社ブログになりました

今日は晴れ、やや暖かい。
31日まで暖かいという週間予報に基づくと
その日はとても寒くなって、それ以降は冬に向かって
一直線だそうだ。
早いとこ外に出られるうちはいろいろやっておこう。
山沿いなんかは特に先に行ってしまいたい。


さて、今日もまた神社。
いつ仕事してるんですか?というご指摘は今んとこないが
仕事の合間に神社に行っているってことで。
神社の合間に仕事してるっていう言い方もありますけども。


今日は、昨日ちょっと触れた茂庭周辺に絞って行く。
最初は坪沼の八幡神社へ。
坪沼は、仙台と村田の境界あたりにあって、いわゆる境の鎮守さまだ。
仙台村田線で行けば、看板も出てるのでわかりやすい。

ちょっとした丘が神社の境内になっている。
写真では上まで階段が続いているが、約100段ある。
大したことなさげな感じだけど、日頃運動不足なので…。
上からだと、仙台村田線がよく見下ろせる。
こんな感じで、昔は村境には鎮守さまが祭られていて、外から穢れが
持ち込まれることを防いでいた。
一方で、外から来る人々、つまり稀に来る人ってことで「まろうど」
を歓迎する意味でも、こういう神社は存在していた。
八幡神社の境内はなかなか広い。舞台や神輿なんかが展示?されていた。

社殿は特に様式はない。新しいもので、江戸中期から後期のもの。
もっとも、この辺の時代になると改修も多いわけだけど。
社伝によると、源頼義と義家が安倍頼時を追討すべくこっちに来た。つまり前九年の役だ。
その時に、男山八幡に請うて神官を伴ったんだな。
それであっちこっち転戦してるうちに、八幡神社をつくりまくった。
そのうちの一つが、この坪沼八幡だという。
で、この地に根添館という安倍氏の支城があって、その村の中央に社殿を建立したのが始まりだ。
ここの社務所…すごく新しくて綺麗だった。
公式サイトもあるので、ご紹介申し上げたい。
http://tsubonuma.org/


その後、茂庭のほうまで戻って、同じ八幡神社の生出森八幡神社へ。
神社庁の地図を見ると、いかにも小学校の向かいにある感じだけど
わき道に入るから、ちょっとわかりにくいかも。

生出森八幡の神楽は市の無形文化財ってこともあって
舞台がなかなかのでかさ。参道にちょっと出てきているぞ。
ちなみにこの社殿だが、つくりも年代も坪沼と同じくらいだよな?
実は江戸時代に一時期、仏教寺院の管理下にあったことがあるので
いかにも仏教の影響受けてます的な様式は、そういうことを表しているのだろうか。
この神社の由来は、神社庁によると、平泉藤原氏を討伐しようとして
源頼朝が東北にやってくるわけなんだけど、阿津賀志山防塁で大層苦戦した。
そんな時、河村秀清という御家人が阿津賀志山を一番先に登ったんだそうだ。
で、それを賞されて、河村に茂庭の地を与えられた。
河村氏はその後、茂庭と改姓するわけだけど
頼朝の東征の時、例のごとく八幡神社をつくりまくった。
もちろんこの生出森にも八幡神社をつくったわけだ。
後に茂庭氏は、この神社を城内の鎮守として、祭田を寄進するなど崇敬された。


ここの社務所に行ったら
「うちではそういうのはやってないんですけど…」といわれたが
せめてハンコだけでも…と粘ってハンコを押してもらう。
で、他の神社ではこんな感じでもらってたんですよとお見せしたら
「こんな感じでお書きすればよろしいんですね?」とのこと。
どうやら、ご朱印の存在すらわからなかったようだ。
で、書いていただいたんだけど、多分第一号の御朱印じゃないか?


ちなみにこの後、秋保にも行こうかと思ったが
暗くなったのでやめた。