白雉日報社公式ブログ

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御朱印帳がいっぱいになってきた…

今日は晴れ、やや冷える。
えーと、今日の仙台はとてもよく晴れていたんだけど
山形のほうに行ったらどしゃぶりだった。
もちろん庄内名物?という雷にも遭遇したが
それも昼過ぎには止んで、綺麗に晴れた。


今日は取材……それでまた庄内へ。
この前は酒田だったけど、今日は鶴岡へ。
酒田と鶴岡はよくいっしょくたにされるが、意外と離れていて
仙台から岩沼とか大河原に行くのと同じくらいの距離かな…。
ルートは以前と同じで笹谷−西川の往復。
前は台風だったこともあって死ぬ思いだったが
今回は幾分かマシ。といっても対面通行なんか嫌だなぁ。
唯一の救いは、山形中央道が常にガラガラだってことだが
無料化になったとしたら、新千歳周辺を彷彿とさせるこの風景も
見られなくなるのだろうな。
さて、今回は大体3時間30分くらいで鶴岡に到着した。
しかも若干迷った上でこの時間なのだから上出来だ。
まずは用事を済ませた俺は、荘内神社へ。

社殿の構造は完全に江戸中期以降のもので、やや寺院形式も入っている。
祭神は大名の酒井家初代当主の酒井忠次で、荘内藩は酒井家15万石の所領だった。
徳川四天王の一人酒井家がこんな辺境の地に、なんて思うが
江戸初期は外様大名があっちこっちにいて、そいつらを監視するために
譜代・親藩といった大名を細かく配置した。
だから、山形藩は鳥居家とか、会津藩松平家とか。
とりあえず伊達家は囲んどけ的な。
伊達家と酒井家といえば、まぁ有名なのが伊達騒動だろう。
伊達安芸と伊達式部の領境争いに端を発したこの諍いは
当時の藩主・伊達綱村が幼少であったことから藩内で解決できず
大老酒井忠清邸で審問が行われたが、原田甲斐が突如伊達安芸に斬りかかり
柴田外記らと斬り合いとなった。これには酒井忠清が仕組んだっていう陰謀論もあるが
特に証拠はない。当時の情勢が外様潰しの様相を呈していたことと
伊達家家中が混迷していたっていうことがあったっていうだけ。
ちなみにこの柴田外記の家は幕末以後も続き
戊辰戦争では、荘内藩と結託してわざわざ秋田口まで出陣している。


次に向かったのは、山王日枝神社
これは、誠に偶然であって、とある方に
「ここに大きい神社がありまして…」と説明された時に
住宅地図を見せてもらったら、確かに大層大きい神社だった。

この神社、周辺に商店街があって、一種の門前市となっていることもあり
手入れが行き届いている。参拝者も多かったし。
こうやって地域住民に愛されている神社は、極めてよきかな。
俺の家もそうだが、地域の氏神がどこの神社なのかって
きっちりわかっていれば、住民はその神社を大切にするだろうし
宮司さまがおられれば、祈祷やお祓いの相談もしやすい。
つまりコミュニティスペースとして活用できるわけだ。
俺だったら氏子総代喜んでやるよ!
閑話休題
この神社は、創建が最上義光らしい。
確かに社殿の意匠や、色使いなどを考える江戸初期のものなのだが。
しかし、木鼻が決定的に違う。中期から後期のものだ。
神社の木鼻は、古ければ古いほどデザインが素朴。つまり何もいじらない。
だから一本通しなんてのは鎌倉時代とか室町時代なんかによく見られる。
その後、安土桃山時代にデザインが華美になる。たまに江戸初期の神社を見ると
その片鱗を見ることができる。
江戸初期から中期に至ると、神仏習合の影響が出て木鼻に像や神獣を象ったものが出る。
像はシヴァ神の乗り物で、元はヒンドゥー教のものだったのが仏教に取り入れられたもの。
組段が複雑になるのもこの時期で、言ってみれば、古代の神社は仏教を真似て
建物をつくってみました的な簡素な作りで、安土桃山時代あたりから
オリジナリティが出てくる。
中期から後期にかけて、その神仏習合の影響も衰えて
木鼻に像だったのが、だんだん形が曖昧になってしまうわけだ。


あぁ、そういえばあと一つくらいで俺の御朱印帳1冊目は終了するな。
後厄回避できただろうかね。
心を込めてお参りさせていただいたけれども。


その後、取材関係で撮影をしていたら
すっかり夜が暮れてしまって、国道112号をぶっ飛ばしていった。