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日本第一党東北地方の何でも屋さん。

これは10.27に放送された

台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)

が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。

なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ

写真ものっけていきます。

これは第2回目です。第1回目の文字起こしへ


鄭弘儀(以降、司会)「こんばんは皆さん。私は鄭弘儀です。今日の大話新聞へようこそ。
    今日は、前回に続いて日本が台湾を統治した歴史を回顧します。
    今日は10月28日。3日前の10月25日は終戦記念日でした。
    この間、私たちは皆さんにたくさんの写真を紹介しました。
    それらの写真は、日本人が台湾を統治したときに
    台湾人政治団体、台湾の教育、台湾の娯楽や台湾のインフラについて
    紹介したものなのです。
    当時の様子はどうだったかということを紹介しますが
    今日みなさんに紹介したいのは、日本人が台湾にやってきて
    50年間の毎年何があったのか、ということです。
    どの事がどの程度発展してきたかというところまで紹介したい。
    私はこれで日本人のいい面と悪い面がわかると思う。
    この全面的な紹介で、みなさんに自分の歴史を理解させると同時に
    日本による50年間統治と、国民党による60年統治は何が違うのかと
    比較させてみたいのです。
    はい、まずはゲストをご紹介しましょう。
    まずは民進台南市議会議員 王定宇議員です。王議員どうも」


王定宇「弘儀さん、皆さんこんばんは」


司会「次は元時事新報編集長の呉国棟さん」


呉国棟「どうもどうも」


司会「次に政治記者の陳立宏さん」


陳立宏「どうも」


司会「次に、東呉大学政治学科の助理教授の徐永明教授。徐先生、どうも」


徐永明「どうもよろしく」


司会「同じく政治記者の鍾年晃さん」


鍾年晃「弘儀さん、皆さんこんばんは」


司会「よし、昨日はどこまで議論したっけ。1906年までだね。
   台湾度量衡規則が公布された。実は度量衡は重要ですね。
   度量衡はなんだろう?例えば、重量単位で1斤は16両とか
   どんな単位で物を計量するのか、例えば1メートルとか。
   1キロメートルとか、ガソリンのガロンとか。
   これは皆度量衡です。これを統一してこそ社会はある基準で
   混乱せずに運行できる。つまりこれらは重要なことです。
   昔、始皇帝は「車同軌、書同文」という政策がありました。
   私は多分、車同軌というのは度量衡を統一することだと思う。
   はい、今日は1906年を見ましょう。
   佐久間左馬太総督が第5代目総督に就任した。
   彼は武力で理「蕃」政策を推進しました。
   つまり彼は強硬派でした。この人の顔はどうだったのか。
   こちらを見ましょう、日本の第19代総督は多分名前が覚えられた人が少なくて
   忘れ去られた人もいると思います。
   
   こちらを見てみましょう。この人が佐久間左馬太です。
   そしてこの人は台湾に埋葬された明石元二郎です。
   この人は今、芝山に埋葬されています。元々台北市の14号公園(森林公園)
   に埋葬されていました。(林森北路あたりだ)それは扁ちゃん*1が後に見つけたね
   次を見ましょう。
   
   
   この人は田健次郎です。そしてこの人は内田嘉吉です。
   正直、私はここに載っている人のことがよくわからない。
   そしてこの人は有名な児玉源太郎です。児玉源太郎は四代目の台湾総督でした。
   しかし彼は台湾にいる時間が少なくて、後藤新平に委任しました。
   あとは後藤新平の写真を紹介します。
   後藤新平は台湾に深く影響しました。いいところも悪いところもあります。
   次に、この人は乃木希典。三代目総督つまり日本に重大な貢献をして
   日本人にも尊敬された乃木大将です。彼は日清戦争に買って台湾総督になりました。
   彼の二人の息子も全員戦死しました。
   最期は天皇の礼遇に感謝するとして、夫人と一緒に割腹して自殺しました。
   これが乃木希典。この人は初代台湾総督の樺山資紀です。
   これが私の持っている写真ですが、また手に入れたらご紹介します。
   つまり、これは5代目の総督です。
   次に、1906年に初の宝くじが発行されて、1枚5円で40000枚が発行されました。
   1906年、すなわち100年前に宝くじがあったんだね。一枚で5円。
   5円は当時で大きかったんでしょう。
   ここで皆さんにご紹介したいのは、当時の宝くじの写真です。
   んー、ごめんなさい。えーと…あったあった。
   はい、こちらを見ましょう。これが当時の宝くじでした。
   
   
   これが今の宝くじ抽選会と似てるね。これはこの人が発明しました。
   宝くじ、Lottery、しかしまもなく発行停止になった。
   三期しか発行しなかったようです。
   宝くじを買う人は日本人ばかりで、日本の資金が台湾に流れ込んだので
   日本政府はこうして発行停止にしました」


鍾年晃「多分こういうことだと思います。
    当時の台湾銀行では、5円札があるのでちょうど5円で宝くじが買える。
    しかし当時の5円は2.5ドルでした」


王定宇「当時の宝くじは、一枚大きい紙の中に、10枠があります。
    一枠50銭で販売していました。従って10枠は5円になりますね
    当時はこうして、クルクルと抽籤していましたが
    翌年には発行停止になりました。発行当初は全世界を考察して
    金の用途を慈善、衛生、神社やお寺の修繕に用いました。
    つまり今台湾で発行されている宝くじと似ていますね
    しかし発行停止にしたのは、一方は買う人が日本人ばかりでした。
    もう一方は、当時の台湾総督府は台湾宝くじ無期限終止理由書を公布し
    当時の詐欺集団はインクを偽造して当選番号を偽造すると。
    詐欺事件が頻発したので、発行中止にしました。
    その時はもう詐欺集団があったんです」


呉国棟「私は佐久間左馬太にちょっと補足したい。
    歴史ははっきりと書いてきませんでしたが、彼は1905年4月に就任しました。
    第5代総督、陸軍大将でした。なぜ後藤新平は彼が来て
    一年未満で台湾を離れたのか。その理由は関連書籍を見ても
    わかりませんでした。後藤新平は台湾でこんなに工夫したのに
    総督府もできた*2し、彼は児玉の命令で台湾に来て
    児玉本人が台湾に来なかった(本当は児玉は着任した)
    この5代目が来た時に、後藤新平は去りました。
    私はきっと彼らの仲が悪かったと思います。
    (2人の仲が悪かった根拠はない。後藤新平はこの後満鉄総裁に就任しており
     転任のためだったと考えるのが自然である)」
    後藤新平が来たばかりの時も鎮圧策を取ったけど、後に同化策を取りました。
    この佐久間は凄かった。私たちが知っている高砂族はそのあたりから始めました。
    彼が原住民を山の奥に駆逐して彼らの生活圏を縮小した。
    大部分の地域は殖民しようとしました。彼の時代にたくさんのことが起こりました。
    北埔事件だの、羅福星事件だの、あとは何だっけ。
    タバニー事件だった。とにかく全部彼の時代に起こりました。
    彼の時代に例えば北埔事件は樟脳を独占して、あの会社に独占させて抗争が起こりました。
    そして、ある事件は材木をある製紙会社に独占させたために
    抗争事件が起こってしまいました。
    つまり、彼の時代に三段警備制で台湾を統治しただけでなく
    理「蕃」政策でたくさんの抗争事件も起こりました」


司会「つまり…彼は9年間で任期も一番長かったのです。
   ある人は強硬な手段で、ある人は懐柔と開拓で…。
   こちらを見ましょう。
   
  

   これが佐久間左馬太の理「蕃」政策です。
   (武力的鎮圧です、うん)しかしこの写真でみなさんに紹介したいのは
   この写真で当時の日本軍の規律が見えます。
   規律、軍規がこの写真で見ることができます。
   整列していますね、オーケー?
   これが強硬な理「蕃」政策でした。しかしまたもうひとつの
   理「蕃」政策があります」



鍾年晃「私は国棟さんの言ったことを補足したいのですが
    なぜ佐久間左馬太が強硬派だったのかというと
    後にたくさんの外国人学者が、なぜ台湾と韓国は同じく日本に統治されたのに
    台湾人が親日になって、韓国人は反日になるのかを研究しました。
    結論が出ました。なぜなら、その時台湾に来たのはほとんど海軍の軍人でした。
    日本の維新の時、海軍はイギリスを真似て、陸軍より開明的でした。
    しかし日本陸軍はドイツを真似て海軍より強硬でした。
    従って、韓国を占領した陸軍は、韓国で台湾より高圧な政策を取りました。
    つまり彼の時代にやけに抗日事件が多かったんです」


司会「よし、ごめん。ちょっと私に話させて。
   この写真を見てください。
   
   

   これが懐柔策の写真です。これは日本人が原住民の代表らを総督府
   招待したときの写真です。さっき佐久間左馬太の高圧な政策を討論しましたね
   一体、高圧な政策がいいのか、懐柔な政策がいいのか
   私は懐柔な政策がいいと思う。もし高圧な政策を実施したら
   後にその民族の反発があることは必至でしょ。
   国民党の台湾人民へのやり方は台湾人民は反発しましたか?
   さっき言った日本が韓国と朝鮮へのやり方は朝鮮が反発しましたか?
   正直、どんな政権も高圧な政策をとったら
   まるで悪いガキにしつけるとして、フルボッコして悪いことをさせないように
   しかし、そのガキの心の中にきっと、反発の種を蒔いたでしょ?」


王定宇「私が大きくなって、君が老いるよ。
    この佐久間左馬太は「理蕃総督」の異名を持っています。
    彼の最期はタロコ族との戦争で戦死しました。(その事実はない)
    この「理蕃総督」は3つのことをやった。
    一つ目は、山の入り口に「隘勇線」を設置して防備しました。
    二つ目は、地雷を設置しました。三つ目は通電した鉄の網を戦略要地に設置しました。
    つまり彼は原住民に良くありませんでした。北部の原住民に主に武力で降伏させた。
    南部の原住民には懐柔の政策で降伏させました。
    彼がタロコ族を討伐する時、タロコ族は97社。1600世帯、9000人のうち
    3000人は戦えます。皆小銃で武装しました。その時の原住民は誰も武装しました。
    それで、この「理蕃総督」は戦争で負傷して山谷に落ちて翌日に亡くなった
    (これは間違い。総督は戦死した人は皆無)
    しかし佐久間総督は理蕃政策を実行するだけでなく、社会秩序も樹立しました。
    彼が浮浪者の取り締まりを命令して、浮浪者は当時のヤクザのことです。
    浮浪者を取り締まる時は28宿だの、武徳パンだの、福禄パンだの
    1906年に存在する暴力団を台東のカロランで管訓所を設置して、炎焼島(現、緑島)
    に管訓所を設置しました。それで、暴走したヤクザが炎焼島に監禁されました。
    これが1906年に佐久間左馬太が実施した政策でした。
    つまり、いまだにそこを炎焼島と呼びます。後に台湾で岩湾管訓センターを設置
    しました。これらの施設は台湾のヤクザたちを管制する策で…」


司会「懲りないやつ?よし、管訓センターに送る。しかし考えてほしい。
   佐久間左馬太は自ら高砂族を鎮圧しにいった(行ってない)
   山谷に転落して、翌年に死亡しました(していない)
   19代総督の中で唯一戦死したのは彼だけだったかもしれない(していない)
   私が言いたいのは、これで当時台湾の原住民たちの勇猛さがわかる」


陳立宏「従って、後に日本人は高砂族高砂義勇軍を編成して
    東南アジアでアメリカ軍と戦いました。それは日本人は
    台湾を統治する時に、高砂族の勇猛さを体感したからです」


徐永明「つまりこの写真で日本人の策が見えます。
    これが日本人兵士です。日本兵が部隊を率いて蕃社に入って
    後ろの兵士たちは皆原住民でした。これが蕃人を以って蕃人を制す
    ということだったのです。正規軍だけでなく、南部の原住民も協力して
    彼らはこうやって蕃社に入っていきました」


司会「続いて、時は1907年に入りました。この年は日本人が台湾に入ってきて
   12年目で縦貫鉄道の濁水渓鉄橋が開通しました。皆さんまだ覚えてますか?
   これが鉄橋で、列車専用の橋です。縦貫鉄道の濁水渓鉄橋が開通したよ。
   普通の自動車用の橋じゃなかったよ。これは列車が濁水渓を渡るために
   作ったものです。濁水渓は長いよね。
   つまり中国ではまだ清朝のときに、日本人は台湾で鉄橋をつくった。
   次は新竹の人、蔡清琳は隘勇、脳丁、サイシャット族を率いて
   新竹の北埔支庁(現、新竹北埔)を襲撃して後に北埔事件と呼ばれます。
   つまりここで原住民の勇猛さが見えます。サイシャット族だの、タイヤル族だの
   はい、後でまた1907年の出来事を見ましょう。先に休憩してコマーシャル」

*1:陳水扁前総統のこと

*2:実際に庁舎ができたのは1919年。