白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。


これは10.27に放送された

台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)

が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。

なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ

写真ものっけていきます。

(2008.5.31の続き)


鄭弘儀(司会)「はい、さっき日本が台湾にやってきて10年で何をしたのか討論しました。
        他はどんなものが?電話も鉄道もできて、衛星、探検などいろいろやった。
        学校もできた。はい、次は何かあるでしょうか?
        亀山発電所つまり現・桂山発電所台北新店の南勢渓と北勢渓の交差点で
        竣工しました。これが台湾で初の発電所でした。
        はい、ここで何がわかったでしょう。発電し始まりました。
        (街路灯ができたね)電球ができました」


李坤城「私は今日、こんな写真を持ってきました。
    
    これはさっき言った、1908年に整理した発電所です。
    亀山発電所、竣工したばかりの写真です。亀山発電所、新店・亀山
    これは台湾で初の発電所です。これを除いてさっき私たちも討論した
    あの断髪纏足を解放すること、日本人は私たちを封建制度から
    解放してくれただけでなく、国語による学校教育も行いました。
    しかし国語学校は女子学生だけでなく、彼らは士林で女子学堂(学校)
    も設置しました」


司会「女子学堂ね」


李坤城「はい、つまり女の子は纏足を解放してから教育を受け始めました。
    これだけでなく、さっき言った専売局も台北で工場を設置し始めました。
    工場は設置されてから、アヘン、樟脳、タバコを作ります。
    
    工場の施設はみんな非常に近代化しました」


鍾年晃「この亀山は、おそらく多くの新店人は知らなかったでしょう。
    この地名は消えてしまいましたからね(多分屈尺あたりにある)
    そう、もしあなたが新店から烏来に行くとして
    屈尺を経過したら、二つ橋が見えます。一つは上亀山橋
    もう一つは下亀山橋といいますが、あの亀山発電所はちょうど
    そのあたりにあるはずです」


王定宇「発電所のことを言うと、私はちょっと補足をして
    亀山発電所のことを除いて、実は1911年つまり中華民国が生まれた年に
    台湾のほうはほぼ全島発電していました。それも水力発電じゃなくて
    天然ガスで発電して、非常に進歩していました。
    つまり1909年8月に新店渓の小粗坑発電所、同年打狗すなわち高雄の
    竹子門発電所、さらに台南安平の発電所、1911年に中部の后里発電所ができた。
    つまりその電力は全島の需要を充足することができました。
    電力の需要が大きいので、不安定な水力発電をしないで
    天然ガス(火力発電)をやったんです」


呉国棟「1911年に天然ガスを使いますよね。1911年。
    その時の中国はまだ灯火を使っていた」


司会「天然の桶(プロパンガス)を付けたね(笑)」


陳立宏「さっきアヘンのことを触れましたが
    最近大話新聞は昔国民党が知らせたくないことを
    私たちが討論したので、実は国民党が非常に気にしています。
    例えば私達はあれらの古参兵とか、何か立法院で反発があったみたい
    (続けて討論したら告訴するぞって)
    はい、アヘンの話に戻りましょう。
    ある人は日本人は台湾人にアヘンを使用することを勧めたと主張した。
    そんなこと討論しましたか?してません、そんなことはない。
    
    これを見てください、私はこの中国人が出版した「歳月台湾」という本を
    提出します。彼らはここでも実際の状況に基づき正しく行っていますね。
    実はここではっきりと日本人がその時にアヘンを制限することは
    アヘンの生産と販路をコントロールしてアヘン中毒者をだんだん減らせる
    と書いています。彼らのいわゆる専売制度は実はアヘンをコントロールする。
    彼ら中国人が書いた歴史はまだ国民党のように歪まない」


司会「どんどん禁止させても、すぐに変わらないからでしょ」


陳立宏「はい、彼らはこれを出版して、日本人はどうしたか?
    中国人は彼らはアヘンを専売させるのは実はアヘンを把握して
    アヘン中毒者を減少させたと」


司会「馬英九は日本人は台湾人にアヘンを吸わせることを勧めたと言いました」


陳立宏「そう、つまり馬英九、中国人は実は…中国人は選挙がいらないでしょ
    つまり彼ら(中国人)は馬英九に当選してほしいが
    彼らがこの本を出版するのは、明らかに政治的な意図がないので
    出版できたのです。彼ら(日本人)は専売制度を実施するのは実はアヘンを把握して
    アヘン中毒者を減ってこさせる」


呉国棟「台北寧夏あたりで一軒のアヘン中毒者を専門治療する収容所がありました。
    これは杜聡明博士。つまり私達の初の医学博士です。
    
    ここはアヘン中毒者を治療する施設です。つまり彼らは
    これを非常に重視しました。この医学建築物はのちに国民党によって
    「光復大陸設計委員会」を設置されました」


王定宇「そんな設計はアヘンの吸い放題じゃない(笑)」


司会「はい、どこまでいったっけ。
   9月に日露戦争終結しました。私たちはさっき日本では日露戦争があって
   何がありましたか?日清戦争もあったし、台湾は国債の1/5を負担しました。
   そう、そして日中戦争もあって、考えても怖い国でしょ?
   こんな小さい島国はソ連、中国、清朝と戦って、後アメリカと
   敵対して戦って負けた」


王定宇「この国家はきっと彼らが怖いところがあって
    彼らが闘ったのはみな古い帝国です。清帝国ロシア皇帝ロシア帝国
    それらはみんな古い帝国です。これは維新が帝国主義と戦って
    全部勝ったということです。太平洋に進出した時は相手は民主国家で
    彼らも維新です。維新と維新が戦う時は、国力を比較するだけですよ」


司会「今私たちが討論するのは戦争を勧めるためではありません。
   戦争を発動することを勧めるためでもない。この国家は一体どうなったのか
   何でそんな大きい国と勝つまで戦って、最後アメリカに負けたのか
   この中に多分中身、彼らの精神や核心は何だったのかということです」


陳立宏「はい、彼らは実際の状況を正しく行います。日本人の武士道精神は
    実はこの国のために命を犠牲にしても構わないという
    そしてその時、明治維新を推進するために彼ら若者は本当に
    政府を倒しました。彼らの首相府(江戸城?)に侵攻して
    革命を発動しました。後にそれら若者は同じく粛正されましたが
    しかも全部自害を要求されました。彼らの精神は全日本を全面的に
    西洋化する精神は強烈でした。
    これと中国の「差不多精神」と比べたら差は大きいでしょう。
    しかも実は海洋国家と大陸国家の観念から見ると19世紀の海洋国家は
    イギリスは海洋国家ですよね、スペインも海洋国家です。
    日本は東方で初の海洋国家といえるわけです。
    忘れちゃいけないのは、清帝国ロシア帝国大陸国家ということです。
    つまり海洋国家はますます振興して、大陸国家に勝ちました。
    なぜなら彼らはより多義性的で、より科学的で、より文明的だった。
    彼らは清帝国に勝って、ロシアにも勝ったでしょ。
    しかしアメリカも海洋国家だったわけで、つまり後に海洋国家と海洋国家
    の時はアメリカが勝った(その時は清も発展したい。
    つまり北洋とか南洋とか)「船堅砲利*1」でしょ」


司会「すみません、話を少し折れてつまり「船堅砲利」はそんなに重要じゃない」


陳立宏「うん、重要じゃなかった。それは表だけですね」


司会「はいはいはい」


李坤城「日本人は第一、彼らは戦闘力が強い。第二は彼らが研究の精神があります。
    だから彼らはイギリス、フランスを真似て武器と戦艦は彼らを越えてきた。
    故に彼らは(日本人)その自身を持って、後にアメリカに負けました」



司会「私達は例をあげましょう、アメリカには「船堅砲利」があるのか?あります。
   結局ベトナムに勝ちましたか?ない、ベトナムはどうやって勝った?
   精神ですよ、「土法煉鋼」だね、そうだよ。つまり精神は永遠に有形のものより
   重要です。私はさっきから何度も精神、精神と強調してます。
   それが態度、制度と精神、民族性これは何より重要ですよ。
   最後まで討論しましょう、彰化銀行が開業しました。林戯堂らの
   はい、1906年、台湾種痘規則が公布されました。
   重要じゃないですか?私は重要だと思うよ、天然痘でしょ。
   それも防疫のためにね、そう、みな防疫のために。この、当時の台湾人の間に
   天然痘が流行っていたかもね。
   はいはいはい、次は嘉義で地震が2回発生して、1,000名あまりの人が亡くなった。
   重要じゃないですか?重要ですよね、当時は酷かった。
   はい、定宇さん。これは921*2より酷かった」


王定宇「損害比率が高いですね」


司会「はい、人口比例から見たら、人口比例から見ると
   921は2000人余りが亡くなったね。しかしその時は1000名あまりの人が亡くなった」


李坤城「なぜなら、その時の台湾総人口は200万人余りだけでした。
    弘儀さん、こっちに写真があります。その嘉義大地震の写真
    こちらに記念碑があります」


司会「なぜそれが921より酷かったかというと、第一人口比例からいうと
   その時は921より酷かった。第二にその時の建築物は低くて圧死する可能性が
   少なかったんです。木造の家屋のほうが多かったから、今はみんな
   コンクリートでしょ?つまりあの時のほうが震度が大きかったと思う。
   しかし私が言いたいのは、なぜか小さい頃、教えられなかったことです。
   先生たちはこれを私達に教えなかったんですよ。
   次行きましょう。六三法が三一法に変更されました。
   次は台湾度量衡規則が公布されました。これも重要ですね。
   これらはみんな台湾の制度を樹立しました。
   これが台湾が「長治久安」すなわち永久に経営できるわけです」


王定宇「その時彼らは、これらの制度を推進しているうちに王雪農のような
    台湾人も砂糖製造所ができることがわかります」


司会「禁止しませんでした。度量衡は精確な科学の体現でしょ」


王定宇「そう、測量したものはごまかせない。同じになります。
    もし君が中国とそれはどれだけ遠いだろうと問えば
    いえいえ遠くない、何十メートルだけだと、迷いはじめるでしょう
    君は中国で何かいい思い出はある?
    一体どれだけかかる?もうすぐだ、もうすぐだと(笑)」


番組終了    

*1:強大な戦艦と艦載砲。大艦巨砲主義みたいなもんか?

*2:1999年台湾で発生したM6.8の地震。2321人が死亡。