白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

これは10.27に放送された

台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)

が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。

なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ

写真ものっけていきます。

(これが1回目です)


司会(鄭弘儀)「皆さんこんばんは。私は鄭弘儀です。今日の大話新聞へようこそ。
   国民党時代には台湾光復説と呼ばれ、今、我々台湾人が終戦記念日と呼んでいます
   国民党は日本が統治することを日據時期、すなわち日本佔據という略称で呼びました。
   台湾人は日治時期と呼んでいますが、今日は終戦記念日から2,3日過ぎていますが*1    
   今日は良い機会だと思って
   私たちはある歴史を振り返ろうと思います。
   我々が何を振り返るのかというと、1945年に日本が敗戦し無条件降伏したあと
   日本の振興と復興はどれだけ早いのかということで、国民党はいつもこう宣伝しています。
   1945年に国民党がやってきてから、台湾の経済に奇跡が起こった。
   9年間の義務教育を施した。十大建設を完成させたと。
   つまり、私たちはある比較ができます。それは同じ1945年に始まった
   日本敗戦後の発展と、台湾の発展はどれだけ早いのかです。
   基礎がほとんど同じなので比較することができるでしょう。
   台湾は日本に50年統治されたあと、全アジアでは第二の先進国といえるほどでした。
   今、私たちは両者に差があるのなら、なぜその差が出てくるのか比較します。
   それは国民党がとても無能なのか、もしくは日本人が凄いのか
   そしてその凄さの原因は何か。今日はそれを討論して検証していきたいと思います。
   もし原因を見つけたら、私はこれから台湾はその道を歩くべきだと思います。
   そして今日は、深く討論するだけでなく、人によっては大話新聞は種族の恨みを扇動して
   日本人を美化しすぎて、国民党を貶して言っているように見えるかもしれませんが
   そんなことはないのです。それはなぜかというと
   今日、私たちは日本が台湾で一体何をやったのか、皆さんと検証したいと思うからです。
   ここでは日本人がどれだけ凄かったかではなく、国民党がどれだけ無能だったかでもない
   歴史の真実を重視するだけなのです。私は中傷などを企図しているわけではなく
   皆さんに見せたいだけなのです。国民党が我々に教えなかった時に隠蔽しようとしたら
   私たちはそれを探し出すべきです。それが重要な精神ではないでしょうか。
   さて、ゲストを紹介しましょう。
   最初のゲストを収蔵家の李坤城さんです。坤城さんこんばんは。」


李坤城「弘儀さんこんばんは。」


司会「元時報週刊編集長の呉国棟さんです。國陳さんこんばんは」


呉國陳「どうも」


司会「民進台南市市議の王定宇さんです。王議員こんばんは」


王定宇「弘儀さんどうも」


司会「政治記者の陳立宏さんです。立宏さんこんばんは」


陳立宏「弘儀さんこんばんは」


司会「政治記者の鍾年晃さんです。年晃さんどうも」


鍾年晃「弘儀さんどうも」


司会「以上でお送りします。
   さて、なぜ比較することが重要なんでしょう。私は皆さんにある一覧表をお見せしましょう。
   これは英語サイトでダウンロードしたもので
   ある人がそれを中国語に翻訳してくれました。
   1945年に日本が敗北した時、日本はアメリカ軍の爆撃でバラバラとなっていました。
   私たちはここにその酷さを見ることができます。
   横浜の損害率(焼け野原)は58%、東京の損害率は51%、富山の損害率は100%近くです。
   全部焼け野原になってしまったわけですね。名古屋は40%、大阪は35%
   西宮の損害率は12%。オーケー、私たちはこれらを総合して平均損害率は5割あたりだと
   計算しました。
   ところでその頃の都市の大きさはどれくらいの程度だったのでしょう。
   さっきのは英語サイトでダウンロードして中国語に翻訳したもので
   これが原典です。
   今、皆さんにご紹介したいのは、これが横浜、これが東京、左側の都市の規模は
   右側に書いてあるアメリカの都市の規模とほぼ同じです。
   当時の横浜はクリーブランド相当の規模で、東京はニューヨーク相当の規模で
   名古屋はロサンゼルス相当の規模で、大阪はシカゴ相当の規模で
   この、大震災のあった神戸はボルティモア相当の規模で
   川崎はポートランド相当の規模ということですね。
   結局、その損害率は1%から99%までで、平均は5割程度です。
   これで1945年には日本の都市の5割ほどが爆撃で破壊されたことがわかりました。
   しかし戦後日本の復興スピードはどれだけ早いのでしょうか。
   皆さんにご紹介しましょう。
   これは日本語の文献なのですが、1926年を見てください。
   ここが1926年で、台湾はまだ日本領でした。
   1945年に広島と長崎は原爆を落とされました。
   次はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏します。
   そして、連合国は日本を占領しました。占領後の日本では、1945年に
   第一次農地改革が行われました。今皆さんに紹介したいのは
   1945年に日本の都市は50%も破壊されたのに、戦後一年後の1946年には
   9年間の義務教育が始まったのです。
   私たちは1968年から開始されましたよね。日本は敗戦してから一年後に
   9年間の義務教育を行いました。私たちは1968年なのに日本では1946年からです。
   22年の時間差があります。再びこれを見てみましょう。
   日本はまた、労働基準法児童福祉法教育基本法、学校教育法、独占禁止法
   を公布しました。次に1953年にNHKが設立しました。
   NHKとは何でしょう?」


陳立宏「日本放送協会、つまり彼らの国家通信社です。イコール彼らの公共電視ですね」


司会「それでは、私たちの公共電視はいつ放送開始するんでしょう」


鍾年晃「1980年代かな?」


司会「正しくは1998年。NHKは最初の公共ラジオ局です。公共ラジオネット。
    とにかく私たちは日本よりはるかに遅かったのです」


陳立宏「もしあの頃に国民党にコントロールされた中廣*2NHKを比較したら
     地位はほぼ同じになります」


司会「なるほど、それではもう一度これを見てください。
    1945年から1964年のまでの19年間だけで、新幹線が開通しました。
    東海道新幹線のことですよ。うちの高速鉄道台湾新幹線)は2007年に開通して
    日本より43年も遅かったのです。彼らは敗戦国ですよ。
    敗北してから19年後には新幹線があった。
    1964年つまり民国53年、その頃の台湾は内燃機関車を使っていました」


鍾年晃「ある地方では蒸気機関車を使っていました。
     彼らの新幹線はもう時速210キロまで至っていました」


司会「台湾の鉄道もほとんど日本人が舗装しました。
   次に1964年に東京オリンピックが開催されました。
   謝長延が台北市長選の時、オリンピックを台北に誘致したいと
   言っていましたが*3、誰も不可能だと言っていました。
   我々の台湾では、失敗主義だの、投降主義だのが流行っています。
   まだやってもいないのに不可能だ不可能だと言われていますよね。
   私たちは本当に不可能を可能にしてみましょう。
   次を見てください。
   1970年に、日本の大阪では万国博覧会が開催されました。
   1970年は戦後25年ですね。私が言いたいのは、戦後彼らには
   こんなにたくさんのものがあったということです。
   台湾は1945年に国民党に渡されてから何があったのでしょうか」


王定宇「これには重要な点がいくつかあります。
    三つの民族、台湾人、日本人、中国人が関わっています。
    1945年以前、台湾の物価レベルは日本の約80%程度で、それほど差はありません。
    1945年以後、日本は台湾よりも損害が酷かったのです。
    台湾では空港や工場があるところ、例えば台南や高雄が17回空襲されました。
    つまり台湾も爆撃されましたが、日本より損害は軽かったのです。
    中国は戦勝国なので、中国人は台湾にやってきました。
    日本人は敗戦し、戦犯は監獄に収容されました。
    要するに、理論的に台湾は先天的な条件は日本より良かったはずなのです。
    もし中国人の言うとおり、本当に偉大な中国人と蒋介石の加護があったならね。
    後になって私たちは気づきました。鉄道を例にすると
    鉄道の電化工事は十大建設で始まったのですが、それはもう民国60年代
    (1970年代)になってからのことでした。
    日本は戦後10年で電化工事をを始めていました。
    つまり、両者の土地は同じように戦後占領されました。
    一方は中国が戦勝して台湾を占領し、一方はアメリカが日本を占領しました。
    結局、アメリカに占領された日本は凄まじく進歩し、日本人はアメリカ人には
    なりませんでした。
    中国人に占領された台湾は、私たち自身のことは忘れて、言葉も失われて
    中国人になってしまいました。
    工業・科学・教育の復興についても、私たちは日本人より遅かったのです。
    ついに日本人のほうが偉大で進歩しているという比較が出てきました。
    この仮説が成立するなら、日本に統治された台湾の開放と多様性を
    どう解釈するのでしょうか。つまり台湾人は日本人に劣らないということです」


司会「私たちは今日それを比較して、ある結論を得て皆の参考にしましょう。
    つまり、日本はなぜ速やかに発展して、台湾は国民党がやってきて
    遅く発展したのかです。
    彼らの国民所得はいくらかというと、4万ドルになるでしょうね
    彼らは世界一の国家ではないですか、しかし台湾はなぜ今の状況になってしまったのか
    私はちょっと分析してみました。第一は制度、国民党の制度と日本の政党制度は
    絶対違うと思うんです。第二は態度、第三は精神。
    精神については後で見てみましょう。第四は国民性。第五、これが
    一番重要だと思いますが、明治維新です。
    それは彼らの民族性にまさに定着しました。そして私は今日思いました。
    日本が本当に強かったのは明治維新のおかげでしょう。
    台湾にも維新が必要です」


李坤城「私は弘儀さんの言うことに同意しますよ」


呉國陳「私は皆さんにいくつか補足したいと思います。
     それは戦後、連合国軍が日本を占領したことで
     つまり日本は連合国軍の占領区になりました。
     そしてマッカーサー将軍は天皇制を維持して、日本国憲法を改正しました。
     つまり、日本の改革についてはマッカーサーも尽力しました。
     その時、マッカーサーは日本の天皇だといわれることもあったのです。
     というのも、彼が裕仁天皇に会いに行ったわけではなく
     天皇GHQ本部で彼と会談したのです。
     その時の写真もまだ残っているでしょう。
     GHQが日本を改造しようとした時に、まず天皇制を維持し、民主主義を実施すると
     協議しました。
     次に、日本が軍隊を持たないように、自衛隊を保持できたことです。
     そのために、日本人が稼いだお金はほとんど軍事予算に投入されませんでした。
     私たち台湾の予算はほとんど国民党の国防予算に投入されました。
     貧乏になってもおかしくはないでしょう。国民党がやってきた時は8割でした。
     ここに一枚の写真があります。1945年10月15日に国民党が台湾の台北中山堂に
     到着した時に撮ったものです。
     
     そこで日本は降伏しました」


司会「当時は中山堂じゃなくて公会堂ですね」


呉國陳「式場外は人だらけで、台湾人たちは国民党に高く期待しました。
     あんなに強かった日本がなぜ中国に負けたのか知りたいからです。
     アメリカ人が日本に勝ったことを知りました」


司会「中国人ではなかったわけですね」


呉國陳「しかしその日から台湾行政長官と警備司令を担当する陳儀は
     10月25日が台湾の光復陽だと頒布しはじめました」


司会「もう光復日とは言いません。終戦記念日です。
    日本人はそこを公会堂と呼び、そこで会議しました。
    彼らがやってきてから中山堂と改称したのです」


鍾年晃「実は私は2週間前に、70歳のおじいさんに会いました。
     彼は日本時代に小学校に入学したことがあるそうなんですが
     彼はその頃、今の台北県樹林に住んでいて、小学校には
     洋式便所があったと言っていました。
     多分今の洋式便所ではなくて、そばの水をかける感じだったのかもしれません。
     私は1970年まで家に便所がなかったと記憶していますがね。
     夜は部屋におまるを置いて、昼は豚小屋のそばの簡易便所で用を足しました。
     その便所は2つの板を穴の上に置いたものです。
     その頃の子どもは誰もが下の穴に落ちることに怯えていましたよね。
     考えて見ましょう。日本時代から1970年の間に、台湾はかえって退化しました。
     本当に差が大きかったんです。
     つまり国民党は本当に酷いです。便座までなくなったんですから。
     実は当時の台湾よりも、明治維新をした時の日本のほうがよかったのです。
     科学、人文といった多方面から見ても良かったです。
     重要なのは、日本は敗戦してから国防予算は明らかに減りましたが
     日本政府には、自分の国家を自分達の手で再建しようという意志がありました。
     しかし台湾では、国民党がやってきた時、彼らにはその心構えがありませんでした。
     つまり根本的な心構えが違っていたのです。その結果、日本はアメリカ軍により
     台湾より酷い爆撃を受けていたにも関わらず
     1964年には210キロの新幹線が開通しました。私たちのいわゆる十大建設は
     1970年代までに、鉄道を電化しただけでした。彼らはすでに電化して
     速度ももっと速かったのです。これが日本との差です」


司会「説得力がありますね。こんなことを言っては下品かもしれませんが
    私が小さい頃に父はまだ黄麻*4を採っていた記憶があります。
    黄麻の皮は何に使うか知っていますか?」


呉國陳「ロープを作りますね」


司会「黄麻の枝を干したものは?
   トイレットペーパーですよ、お尻を擦る棒です。
   わかりますか?四つの木片に割れて、それをトイレットペーパーとして使いました」


鍾年晃「その頃は本物のトイレットペーパーがありませんでしたからね」


司会「そう、その通り。私が小学生の頃も家には便座がありませんでした。
   私もあなたと同じで、あそこにうんこ座りをしてました。
   虫がそこでチョロチョロしていて、足に上ってくるんです
   ほらね、説得力がある(笑)
   なぜ国民党時代の民国60年代(1970年代)までそれがなかったのでしょう
   失礼、立宏さんここでコマーシャル入ります」

*1:台湾は10月25日に降伏した。そのため台湾の終戦記念日は10月25日。

*2:中国広播公司の略称。

*3:2006年台北市長選で敗北。

*4:ジュート繊維の原料。導火線、カーペットなどに用いられる。