白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

昭和20年(1945) の今日は長崎に原爆が投下された日だけど
同じ日、ソ連赤軍が日ソ中立条約を破棄して
満州に侵攻した日でもある。
声を大にして言いたいのは、条約が有効であったにも関わらず
平気で日本に宣戦布告し、降伏した日本兵や民間人数万人をシベリアに抑留し
あまつさえ 終戦後も攻撃を止めなかった事実だ。
これは侵略以外の何物でもなかったのは、ロシアでも、欧米でも異論はないはずだ。
だが、忌々しいのはこれをそそのかしたのが他でもないルーズベルトだということだ。
1945年2月のヤルタ会談で、アメリカはソ連を説き伏せて参戦を確約させた。
これには、ルーズベルトが既に余命幾許もなく、彼はソ連を参戦させることで
戦争終結を早めたかったという説がある。
ところが、その直後にルーズベルトは死去し、反共主義者トルーマンが大統領になった。
チャーチルスターリンとは仲が悪かった*1ので、この段階で冷戦の下地が整っていた。
スターリンスターリンで、日本とは条約を破棄してまで戦争をするのだから
領土を、特に北海道の割譲を求めた。トルーマンは即時拒否し
スターリンはその報復的な意味合いとして捕虜や在外日本資産を「戦利品」として徴収
千島列島占守島では日本軍守備隊がやむを得ず応戦し、赤軍が海岸で追い回される失態も演じたが
根こそぎ動員*2でほとんど無力に近かった関東軍は、ことごとく殲滅され
孤軍奮闘していた残存部隊も、山岳や洞窟に拠って抵抗するほかなかった。
その中で逃げ遅れた満蒙開拓移民団は赤軍による残虐行為を恐れて集団自決をし
実際に残虐行為によって殺害された者も続出した。
ザバイカルやチチハルハイラル等では激戦が酷かったてな話だ。

*1:ポツダム会談で、チャーチルに代わってアトリーが首相になり、チャーチルが帰国することになった時、スターリンはプギャーだった。

*2:南方で連合行軍が攻勢に出ると、200万を数えた関東軍から兵力がどんどん南方の戦場に送られた。そのためソ連と対峙する戦力が少なくなった。