白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

熱心な人ほど要注意!?「保守疲れ」の怖さ


この菊地も、保守活動を始めて10年となる。

重鎮の方々には「何が10年ごときで」とお叱りをいただくかもしれない。

しかし、この10年本当に暗中模索。頭を捻って様々なことを考え

多くの仲間とともに歩んでこられたと思う。皆さまに改めて御礼を申し上げたい。

 

保守活動の原点「my日本宮城コミュ」

 

ところで、僕も最初から在特会にいたわけではなくて

my日本というSNSでの活動が原点であった。

全国的なSNSであったmy日本は、しかし宮城コミュにおいては

管理人が変わってから、しっかりした体制となり、勉強会や講演会を

広くやって、ご厚意で会場を提供していただいたお寺のご住職には

今でも頭が上がらない(といいつつ選挙の時にもつい甘えてしまうのだが)。

いずれにせよ、my日本宮城は緩いながらも多くの人が情報交換や交流のために

集まるサロンのような場所であった。

 

なぜ熱心な人ほど「フェードアウト」するのか

 

しかし、一生懸命愛国を叫んでいた人が、僕たちの街頭活動に参加していたかと思えば

次第に反応が鈍くなり、1、2カ月もすると全く参加することがなくなることがあった。

これは他の団体でもそうであるらしく、今でも人材には四苦八苦している団体は

少なくない。

それにしても、なぜ先月まで熱心に活動していた人がフェードアウトするのか。

僕たちはその原因を考えていたのだが。

ある時、管理人を務めていたTさんが言い出した。

「保守疲れしているんじゃないか」

それだ、と思った。熱心な人ほどその場は燃える。だから大言壮語もよくある。

その熱心さは、時間が経つにつれてだんだんと冷めていくのである。

有体に言えば「飽きて」しまうんじゃないかという結論に達した。

保守活動は、表に出る部分は少なくて、むしろ準備だの広報だの

手続きだのに時間と労力を使うことが多い。動画で見るエンタメ性と

裏方とのギャップに疲れる、ということもあるのかもしれない。

だからこそ、何年も続いている人はしばらくは大丈夫なのである。

 

長く活動を続けるための「秘訣」(?)

 

僕も人間だ。いつ「保守疲れ」するかわかったもんじゃない。

そこで、自分なりに気を付けていることは

・決して熱くなりすぎない

・街頭活動などには嫌々参加する

・ここぞ!という時は絶対に集中して最後までやる

・自分の時間を大切にする

である。自分の中で燃え上がる場合、できるだけ抑えるようにして

行動する保守運動をいつも辞めたいと漏らしている。

いずれにしても街宣なり講演会が始まればそれに集中するから

問題はないのであるが。

とはいえ、いつもダラダラしていると周りにも影響するし

結局実績もないまま終わってしまう。

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宮城県本部の女川原発視察の様子。活動に変化をつけるのも有効だ

私たちは公開質問状、抗議文、審査請求、住民監査請求…いろいろなアクションを

起こしてきた。その中には実際に成果に結びついたものもあり

我ながら自慢に思っている。こういう「必ずやるべきこと」には

集中し、自分が納得するまでとことんやるのである。

このように、メリハリをはっきり区別することで

スイッチのオンオフを切り替えることができ、「保守に疲れる」こともなく

これまで歩むことができた。

ただ、政治団体となると違う。選挙もあるし、それに付随する業務もある。

その中でも何とか自分の時間を確保することは気を付けている。

皆さんもよろしければご参考にしていただきたい。

 

討ち入りにも金がかかる!「決算!忠臣蔵」

 

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忠臣義士本望の図(神奈川県立博物館公式サイトより)


先日、「決算!忠臣蔵」を鑑賞してきた。当日は本当に忙しく

ようやくレイトショーに間に合った。

さて本作は、「忠臣蔵」で知られる浅野内匠頭吉良上野介

江戸城松之廊下で切りつけたことから始まる。

内匠頭は、即日切腹。領国である播磨国赤穂藩5万石は取り潰しとなった。

筆頭家老の大石内蔵助をはじめ、赤穂藩はこの知らせに驚愕するとともに

双方を罰する「喧嘩両成敗」にも関わらず上野介には何のお咎めもないことや

即日切腹は過酷すぎるとして

1、大人しく幕府に城を明け渡す

2、あくまで籠城して幕府に要求を呑ませる

の両論に分かれて激論が繰り広げられた。

大石内蔵助は、城を明け渡し、内匠頭の弟である浅野大学を立て

お家再興を嘆願することとした。

結果は周知のとおり、お家再興がならず、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り

「見事な仇討」と江戸の世論を沸かせたのである。

 

笑える忠臣蔵は初めてだ!

 

本作においては、財政面で仇討に至るまでのやりくりを描いている。

赤穂藩は取り潰しになるとはいえ、藩が持つ財産や負債を清算しなければ

いけない。そのため、財産の処理は手許に置くことが許されていた。

藩士は解雇しなければいけないから、一人一人への退職金。

赤穂藩では藩札を発行していたから、その兌換(札を金や銀、銭に替えること)

武具や兵糧、什器に至るまで処分するわけで、そのため勘定方は

赤穂藩がなくなってもそろばんを弾き続けたのである。

本作では、決して悲劇やアクション劇といった時代劇によくある切り口でなく

コメディーとして描いている。

例えば、一人あたりの旅費に36万円かかるということで

赤穂から江戸に向かうシーンで、一人一人に値札がついていたり

大石内蔵助の悪口を言う時にピー音が入ったり

ズっこけたくなるシーンがあったり

随所随所に、中村義洋監督らしい描かれ方がされていた。

殿、利息でござる!」「忍びの国」などであるように

中村監督は、笑いの中で次々に困難を乗り越えていく作品が特徴的だ。

似たような作品では「武士の家計簿」(森田芳光監督)や

のぼうの城」(犬童一心監督)などと比較できるのではないだろうか。

本作では、本当によく笑うことができた。オススメである。

 

お家再興は不可能であったのか?

 

ただ、やはり減封であってもお家再興の道を探る道があったのかもしれない。

赤穂藩広島藩が本家ではあるが、徳川家康の天下取りに大功ある浅野長政の子孫だ。

祖先の功で罪を許された例は福山藩水野家や中津藩小笠原家などがある。

また、仮に取り潰しとなっても「堪忍領」といって当面の領土を

与えられることがある。例えば、山形藩最上家は家中争いで改易となったが

近江に堪忍領を与えられている。

赤穂藩も、バックには本家の広島藩42万石がいたわけで

粘り強く働きかければ、お家再興はなったのではないだろうか。

だがあくまで5万石にこだわるなら、それはムリであろう。

本作では、金勘定のほかにもお家再興に奔走する家臣団の姿も描かれる。

自分が赤穂藩士ならどう動いたか、考えてみるのも一つの楽しみ方であろう。

 


映画『決算!忠臣蔵』特報 11月22日(金)全国ロードショー

天皇陛下御即位記念硬貨、絶賛引換中!

22日、畏くも天皇陛下におかせられては

宮城にて「御即位礼、正殿の儀」を厳かに執り行われ

国の内外に広く、ご即位を闡明遊ばした。

正殿の儀には、約2500人が出席。183カ国から国家元首、首相、閣僚らが

参列した。あいにくの雨模様だったものの、途中から雨も止み

晴れ間がさすと、虹がかかるといった光景を見ることができ

「吉祥だ」とネットで話題となった。

虹は、君主にとって吉祥とされていて、キリスト教などでも神のシンボルとして

貴重な自然現象といわれている。

同じように、虹が雲に映し出される自然現象もまた「彩雲」といい

航空機の名前にもつけられている。

まさに皇祖皇宗も祝福をなされているかのような

実に幸先の良い出来事である。

 

完全に乗り遅れた記念硬貨、銀行にないとすれば…?

 

さて、ご即位の大礼に先立つ18日から、全国の金融機関で

天皇陛下御即位記念貨幣の交換を行っている。

500円硬貨で、一人2枚まで。

実はこれを知ったのは、まさに22日で、まったく出遅れたのであるが

本日、出張で山形にいたものだから

「ネットで広まっているわけでもなし、大丈夫だろう」と甘く考えていた。

すると、山形銀行きらやか銀行荘内銀行など地元の地銀は全滅で

「初日になくなりました」という銀行がほとんどであった。

そこで、当たってみたのが普通銀行以外の金融機関である。

財務省が発表している取扱金融機関は普通銀行以外にも

信用金庫、労働金庫、農協、農林中金などがあるが

信金労金は顧客層を鑑みるにすでにないであろうことが予測されたので

農協、農林中金に当たってみた。

天皇陛下御即位の記念貨幣はまだございますか?」

「はい、ございますよ」

即答である。たまたま出張先が近くだったので

すぐさま農林中金に行き、交換してもらってきた。

農協であったり、農林中金というのは、一般の会社員は普段利用はしないであろう。

なぜならば、こういう機関は漁協などと同じく、特定の業種をメインターゲット

としているからである。従って、店舗を構えていても

銀行のように複数の窓口を持っているわけではない。

だからこそ、一般人は入りにくいわけだが、しかし利用してはいけないという法はない。

こういう機会を利用して、農林中金や農協などの金融商品も見てみると良いと思う。

ともかく、普通銀行ではとっくになくなっている。そんな時に

普段は行かないであろう、こういう特殊な金融機関を当たってみてはどうだろうか。

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農林中金で綺麗な封筒に入れてくれた

大きさは、天皇陛下御在位30周辺の硬貨と同じくらい。

イカラー・クラッド貨幣で、光沢が素晴らしい。

高御座のデザインも細部まで作り込んであるのがまた良い。

御在位30周年の時と比べると、菊の御紋がいささか小さいのだが

やはり上皇陛下を憚られたものと推察される。

しかし、これは本当に美しいもので、さっそくコインケースを

発注した。きちんと保存して長く綺麗なままで次世代に遺していきたい。

 

なお、取扱い金融機関は以下財務省公式サイト参照の上

電話などにて事前に確認すると確実だ。

https://www.mof.go.jp/currency/coin/commemorative_coin/emperors_enthronement/20190920.html

思いが伝わる電報。ぜひフォーマルで活用を

先日、僕の人生の師匠であり仲間である方のご尊父がご逝去

なさった時、遠方ゆえ(北海道だった)葬儀に参列することができないから

代わりに弔電を打ったところ、後日ご本人より御礼のメッセージが来て

大変喜ばれていた。

弔電を打った人はそれほど多くはなかったということで

なおのことであったろう。

 

自分の思いを電報に乗せて

 

僕は電報を極めて愛好している。フォーマルな意思表示として

これ以上の贈り物はないと思っているくらいである。

特に重宝するのは弔事の時と、選挙の時である。

僕も選挙に応援に入ることがよくあるわけだが、どこかの選対本部に入ると

支持していても他所の候補者陣営にはなかなか行けない。

「体が2つあればなぁ…」と切実に思う時である。

そこで、支持している候補者がめでたく当選した時は

「お手伝いに行けず申し訳ない!」の思いを込めて必ず祝電を送るようにしている。

すると、後日お会いした時に「先日はご祝電ありがとう!」と

言っていただき、「選挙どうでしたか?」と入っていきやすいという側面もある。

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頂いたご令状。先方のご迷惑とならないよう個人情報の部分は白塗りでご勘弁を

手紙なども自分の思いを伝えるという面では良いと思うが

いかんせん、重すぎる。かといってメールやフェイスブックなどでは

軽すぎる。やはり電報に落ち着くのである。

 

厳しい慶弔のルール。これどうにかならん?

 

昔のように電信局に行くだの、電話しなきゃいけないだの

面倒な手続きは必要ない。それに昔と違い、今の電報はオシャレである。

ぬいぐるみがついていたり、線香や花がついていたり

ギフト的な商品といっても過言ではあるまい。

デザインも自分好みで決められるし、本当に便利になったと実感する。

 

しかし気を付けなければいけないのは、公選法に違反する可能性があるというもの。

例えば、葬式に香典を持っていく時は、必ず本人でなければならなかったり

香典は必ず現金でなればならない(線香などではダメ)。

弔電や祝電へのお礼状は必ず自筆をしなければならない

選挙区内の親族以外の供花・花輪を出すことはできないなど

せめて慶弔は好きにさせてくれよ!と思いたくなるくらいである。

しかしどうしても金銭がかかるものなので、その分政治家側も苦労しているのだ。

 

なお、NTTの電報申し込みサイトは登録しておけば

次からスピーディーに注文することができ、オススメだ。

https://www.ntt-east.co.jp/dmail/

空母「加賀」発見、苦闘した日米両軍のシンボル

わが帝国海軍が誇る航空母艦「加賀」が北太平洋で発見された。

加賀はもともと戦艦として設計されたものだが

ワシントン軍縮条約で航空母艦に変更、1928(昭和3)年に竣工した。

基準排水量2万9500(3万8000)トン、全長238(247)メートル、最大搭載機60(72)機

1270人(1708人)もの乗組員がいた、帝国海軍の代表的な航空母艦の一隻である。

(カッコは改装後の数字)

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航行中の加賀。大きい煙突が側面についているのが特徴の一つ

第一航空艦隊第一航空戦隊(一航戦)に所属し、空母赤城とともに最前線で活躍した。

また、1941(昭和16)年には二航戦の空母飛龍・蒼龍、五航戦の翔鶴・瑞鶴も加えた

6隻で真珠湾攻撃に参加し、対米戦の火ぶたを切った。

インド洋作戦や豪州への空襲などにも参加し、まさに東奔西走の活躍であった。

1942(昭和17)年6月のミッドウェー作戦で赤城・飛龍・蒼龍とともに

沈没した悲劇の船としても知られている。

 

損傷した加賀、米軍も苦しかった!ミッドウェー海戦

 

77年後の本日、故ポール・アレン氏のチームが設立した

米国の調査チームが加賀を発見したことを発表、映像を公開した。

発見したポイントは、ミッドウェー環礁沖5400メートルの海底。

直立した状態で発見、飛行甲板は失われていたという。


Wreck of Imperial Japanese Navy Carrier Kaga

 

 

ところで、ミッドウェー海戦といえば

帝国海軍の航空母艦4隻がミッドウェー島攻略を目指して

米空母3隻を基幹とする迎撃艦隊と交戦、惨敗した。

しかし、実は米海軍の勝利は辛くも得たものであることがわかる。

この海戦は前述のごとく、ミッドウェー島攻略(MI作戦)を目的としていたため

大田実海軍大佐が率いる海軍特別陸戦隊(約2800人)

一木清直陸軍大佐が率いる一個連隊(約3000人)

を伴っていた。

一方、6月3日にアリューシャン列島ダッチハーバーを攻撃し

キスカ島などの島々を攻略する(AL作戦)のが

空母「龍驤」と「隼鷹」率いる四航戦である。

 

敗因は暗号解読だったのか?

 

重要なミッドウェー島の戦力はどうだったのか。

戦闘機、爆撃機各12機

海兵隊750人、駆逐艦1隻、5インチ砲6門、高角砲12門、機銃約100門

と見積もられていたが、もちろん敵艦隊の迎撃も予想されており

空母3-4隻、戦艦2隻、巡洋艦10隻、駆逐艦40隻、潜水艦25隻の来襲が

予想されていた。「エンタープライズ」「ホーネット」「サラトガ」である。

しかし、ミッドウェーは着々と防備が進み

海兵隊は3000人、多数の対空陣地が整備されていた。

戦闘機27機、爆雷撃機66機、飛行艇32機、旧式機も含めて150機が全兵力だった。

 

よく、「日本軍の暗号は漏れていた」のが敗因とみるふしもあるが

確かに、「AF=ミッドウェー」の確証が掴めなかった米軍がわざと平文で

「ミッドウェーでは真水が不足していると打電したところ」

日本軍の暗号電文が「AFで真水が不足している」と打ったためバレた

のは事実で、作戦目標や大体の開始時期などの暗号が解析されたが

5月26日以降は日本軍が暗号を変えたため、解読ができなくなった。

しかも米軍上層部は偽情報を疑い、必ずしも主要な敗因とは言えない。

とはいえ、ある程度の敵情分析までできたことは認めるべきであろう。

 

爆撃を避けまくる!日本空母の神業

 

日本時間で6月5日午前1時30分、ミッドウェーに接近した機動部隊は

戦闘機、爆撃機攻撃機合わせて108機からなるミッドウェー島攻撃隊を

発進させた。また、ミッドウェー島からも機動部隊に向けて攻撃隊を

発進させている。

ミッドウェー島への攻撃では、およそ20機の米戦闘機を破壊し

基地施設もいくつかを損傷させた。

一方、基地攻撃隊も日本艦隊に向けて攻撃を開始した。

 

だが機動部隊の空母を任せられている各艦の艦長はさすがといおうか

面舵、取舵、とよく回避行動を取り、一発の命中弾もなかった。

以下「第一航空艦隊戦闘詳報」によると、以下の爆撃に晒されている。

6月5日 

飛龍 4時56分 B-17爆撃機9機の爆撃命中せず

赤城 同じく爆撃命中せず

飛龍 5時8分 急降下爆撃機4機爆撃命中せず

飛龍 5時12分 急降下爆撃機6機爆撃至近弾1

赤城 5時13分 爆撃受けるも命中せず

蒼龍 5時19分 爆撃受けるも命中せず

赤城 5時20分 爆撃受けるも命中せず

飛龍 5時21分 爆撃受けるも命中せず

蒼龍 5時24分 爆撃受けるも命中せず

加賀 5時30分 急降下爆撃3機爆撃命中せず

蒼龍 5時35分 B-17爆撃機3機爆撃命中せず

まさに神業を言っても良いほどである。ミッドウェー島の運命も尽きたか

と見られた。が、実は最大のミスを南雲忠一司令官はしてしまうのである。

 

南雲司令官痛恨のミス。仇討に燃える飛龍

 

ミッドウェー島を攻撃した友永隊長は、念のため二次攻撃必要を打電した。

しかし、必ず迎撃に来ると思われていた米海軍を発見できていない。

南雲司令官は、爆撃機に装着する爆装を命じた。

この時、ミッドウェー島攻撃隊の帰還機の収容も行われており

各空母ではてんやわんやの大騒ぎとなっていた。

そこへ索敵機が「巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、後方に空母らしきもの伴う」

と報告してきたからパニックに拍車がかかった。

南雲司令官は「攻撃隊を収容せよ」と命令した。

実は、戦闘機の半分はミッドウェー攻撃に、もう半分は上空援護に

出していたため、敵空母を攻撃しようにも護衛機がいない。

従って戦闘機の収容を優先したのである。

それから再び爆装を対艦用の雷装に積み替えることとなった。

これらの作業は1時間はかかる。

7時24分、準備ができ次第攻撃隊発進の信号が出された時

SBDドーントレス爆撃機が赤城に襲い掛かった。

赤城は大きな衝撃とともに火柱が立ち飛行甲板に

置かれたままの爆弾にも誘爆し、火が燃え広がった。

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回避行動をとる飛龍。見事な操艦である

実は、この攻撃も幸運によるものだった。

米艦隊から発進した雷撃隊は上空援護の日本機によりほぼ全滅したが

マクスウェル・レズリー少佐とクラレンス・マクラスキー少佐に

率いられた急降下爆撃隊54機は、コースを誤って日本艦隊を発見できなかったが

一隻の日本の駆逐艦を見つけた。この駆逐艦は本隊に合流するに違いないと見て

駆逐艦に付いていくと、4隻の空母群を発見した。

急降下爆撃隊は勇躍、空母群に急降下爆撃を実施

赤城、加賀、蒼龍に命中弾を与え、日本海軍の勝利を潰した。

一隻残った飛龍は「我れ敵を撃滅せんとす」と反撃に出る。

乾坤一擲、発進した攻撃隊は、仇討とばかりに

米空母「エンタープライズ」に攻撃を開始、大破炎上させた。

さらに飛龍は攻撃隊を発進させ、米空母に命中弾を与え、炎上させた。

「飛龍が2隻やった」と残った部隊は歓喜した。

しかし、1回目の攻撃で炎上した「エンタープライズ」は驚異的な速さで

火災を鎮火させた。そこへ再び攻撃を受け、再度炎上したわけである。

13時40分、ついに飛龍も爆弾3発が命中、ここに帝国海軍の敗北が決定した。

加賀は消化不能となって16時26分にガソリン庫に引火して大爆発を起こして

沈没した。岡田次作艦長以下811人が戦死した。

母港・佐世保に慰霊碑が建てられているが、加賀の部品は全く引き揚げられていない。

船体自体はムリだとしても、一部を引き揚げて故国へ「里帰り」を果たしてほしい。

奇しくも2年前に護衛艦「かが」が就役したほか

今年は連合艦隊司令部のあった呉鎮守府開庁130周年ということで、イベントの最中である。

奇妙なタイミングでの発見、加賀から何らかのメッセージを感じることができそうだ。

伊達氏と長曾我部氏の意外な縁

先日、友人たちと打ち揃って蔵王町で行われた

仙台真田氏歴史セミナー「真田家と長曾我部家」に

参加してきた。これは年に一回、同町教育委員会が主催しているもので

仙台真田家当主・真田徹氏を講師に招き、講演会を実施している。

この真田家は、「日本一の兵(ツワモノ)」と称された真田幸村(信繁)

の次男・大八の家系である。大坂の陣において、幸村勢が伊達家の軍勢と

衝突した際、幸村は先鋒だった片倉重綱(重長、小十郎景綱の嫡男)の武勇を

見込んで、家臣をつけて子女を重綱の陣に送り、保護を求めた。

これを受けて、伊達家では真田家の系図を捏造し、幸村の叔父の子だとした。

さらに幕府からの追及を避けるため、片倉姓を名乗り大八の名を捨て

元服後の名前を片倉守信と称した。

この時はまだ伊達家食客として、片倉家の所領から1000石を給された。

片倉家の所領はおよそ1万7000石であるから、その中から1000石は

破格の待遇である。

その子・辰信の代に「既に幕府を憚るに及ばず」と藩命により

真田家を再興した。領地は300石とかなり減少した形にはなったが

片倉家の陪臣ではなく、仙台藩士として自立したのだから

悲願が達成された、というところであろう。

この領地が、現在の蔵王町にあたるのである。

 

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左から司会の油川さゆり氏、長曾我部維親氏、真田徹氏

 

さて、今回のセミナーでは、この真田徹氏に加え

長曾我部氏の末裔という長曾我部維親氏を招いて

講演会と対談が行われた。

 

中小豪族から土佐の覇者へ

 

長曾我部氏について振り返っておこう。

長曾我部氏は渡来系氏族の秦氏

土佐の曾我部郷長岡を領したことに始まる。

長曾我部氏の所領は、長岡わずか3000貫(およそ3万石)と

吉良氏(5000貫)や香曾我部氏(4000貫)らと比べて弱小に過ぎず、管領細川氏に仕えて

土佐の名門・一条氏の庇護下にあった。

例えば、長曾我部元親の父・国親は、細川高国から偏諱を受けており

元親も管領細川晴元から偏諱を受けている。

国親は、よくある戦国大名のように養子縁組や調略によって確固たる地盤を築いた。

その子、元親はひ弱で色が白く「姫若子」と言われた。

その元親が初陣を飾ったのが、1566年に国親が本山氏を攻めた長浜の戦いである。

元親は当時22歳、初陣を飾るには遅い年代であり、それだけ武将としての器を

疑問視されていたのであろう。

初陣の場では、秦泉寺豊後に槍の使い方を教わるほど武芸の手習いの経験がなく

「目を突きなされ」という豊後の助言に従ったところ

敵を突き崩すことに成功。これにより元親の武名は大きく上がることとなる。

その後の活躍は周知の事実なので省くが、元親の後を継いだのは

四男の盛親である。元親の嫡男・信親は知勇兼備で英邁な武将であったようだが

秀吉の命により、島津氏に攻められた豊後の大友氏の救援に向かうも

大敗北を喫し、まさかの討ち死に遂げてしまう。

次男、三男はいずれも他家に養子に出ていたため、盛親に当主の座が

巡ってきたが、技量に難があったようで、ひと悶着起きる。

 

さらには、長曾我部氏の大黒柱であった元親が卒去し

頼みの綱でもあった香曾我部親泰らの重臣もこの世を去った。

盛親が一人取り残された形となって迎えたのが、関ヶ原の合戦である。

盛親は、およそ6000の兵を率いて主戦場から離れた南宮山に布陣したが

あまりにも戦場から遠すぎたため、状況がよくわからないままであったという。

とにかくも、西軍についた盛親は一旦改易となり、後ほど堪忍領として

いくばくかの領地が宛がわれる予定だったようだが、盛親が上洛している間

改易に反対する地元の家臣団が蜂起し、戦いとなった(浦戸一揆)。

これにより、盛親の所領は没収。罪が減じられることもなかった。

その後も盛親は何回もお家再興の運動を行っていたが

豊臣家からの誘いを受け、大坂城に入城。これに旧臣らが従い

およそ3000人の長曾我部家臣が大坂の陣を戦ったといわれている。

有名な出城、真田丸でも長曾我部衆が半分を占めたが

不幸なことに、真田丸を攻めたのは藤堂高虎勢。

藤堂高虎には、長曾我部氏の旧臣も多く召し抱えられていたため

同じゆかりを持つ人たちがぶつかるという事態となった。

最終的に豊臣方は敗れ、盛親は死罪となる。もちろん、共に戦った

一族もことごとく自害するか処刑されている。

 

豊臣旧臣は伊達家を目指す

 

仙台藩とのつながりはこの後。長曾我部元親の娘・阿古姫は

長曾我部家臣・佐竹親直に嫁いだが、大坂の陣では盛親を頼って

大坂城に入城。大坂城が落城する際、息子といるところを

伊達政宗の軍に保護されるという、真田大八と同じ経験をする。

この阿古姫と一緒にいた息子は仙台柴田氏を継ぎ

柴田朝意となって、仙台藩重臣となる。

つまり、真田信繁と長曾我部盛親の息子はそれぞれ仙台藩に仕えたことに

なるのであるから、歴史とはまさに奇怪なものである。

さて、講演会に話を戻すと

長曾我部維親氏は、元親五男・左近大夫の子孫という。

ただ、賊軍の汚名を受けたがために、関係する資料は全て

処分されてしまっているとのことだ。

しかし、それなら左近大夫の子孫という根拠が限りなく薄いと

思うのだが、どうであろうか。

パネルディスカッションでは、真田氏当主・真田徹氏が

「(昌幸は)田舎にいたから、中央の情報が入ってこなかった。情報戦に負けた」

と言っていた。けだし、そのとおりである。

会津藩庄内藩桑名藩らと違い、仙台藩は京都の情勢を真剣に

考えようとはしなかった。もちろん、京都に在番した家臣はいたし

再三、藩主・慶邦に対して早々に上洛し、大藩として存在感を示すべきと

進言する手紙を出しているが、慶邦自身が上洛することはなかったのである。

この時期、仙台藩で洋式軍隊を整備しようと東奔西走していたのが

仙台真田氏の真田喜平太であったことは皮肉といえよう。

それにしても惜しかったのは、せっかく真田氏の領土である蔵王町で行ったのに

真田氏ゆかりの場所の紹介がほとんどなかったことである。

例えば真田氏の居館跡の復元や、ガイダンス施設などの整備など

ハード面で拠点が欲しいところである。

「とりあえずここに行けば真田幸村の情報は手に入る」

という核となるところから、聖地巡礼は始まる。

予算の絡みで大変なことだとは思うが、知恵を出して真田の郷が

復活することを期待したい。

伊達氏飛翔の地・丸森町を旅する

先日、仕事で丸森町まで足を運んだ。

丸森町宮城県内最南端にある町で、福島県はすぐそこである。

歴史的に極めて重要な地域であり、特に戦国時代は

伊達氏と相馬氏との領国の境目で、多くの城が築かれている。

今回、仕事の合間をぬって行ったのは丸森(丸山とも)城である。

 

稙宗隠居城から対相馬最前線へ

 

天文11年(1542)、伊達稙宗の三男・実元の上杉氏入嗣問題に端を発した

稙宗とその嫡男・晴宗との間で起こった「天文の乱」において

伊達家家中はもちろん、周辺の大名が介入しての大合戦となった。

最終的に稙宗は晴宗に家督を譲り隠居。その隠居城として築かれたのが

この丸森城という。

北から西にかけて阿武隈川の支流・五福谷川が流れ

北東側を国道113号が通る丘陵上に位置している。

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国道113号から丸森城跡を見る(中央の丘陵)

永禄9年(1566)相馬氏当主の中でも

伊達氏のライバルであり猛将の呼び声の高い

相馬盛胤は、本格的に伊達領に侵攻を開始した。

宇多郡(福島県)から丸森城のある伊具郡へ侵攻し、元亀元年(1570)には

丸森城、金山城などを陥落させる。

さらに、伊達氏の本拠地であった伊達郡福島県)へその矛先を向けるや

稙宗の孫・輝宗は、反撃に出る。天正9年(1581)に輝宗の子で

後の「独眼竜」政宗が15歳で初陣を飾ったのも、この時である。

伊達勢は相馬勢を撃破し、伊具郡の諸城を奪還。

伊達氏と相馬氏の争いは長期化の一途を辿るが、その3年後には

三春城主・田村清顕の調停により両者は和睦。とりあえずは伊達氏が

この地域を確保し、前線が南へ南へと移っていくと、この城の

戦略的重要性が薄らいでいく。

 

状態の良い曲輪群

 

慶長3年(1598)には、仙台藩の奉行職にも就任する大條薩摩守実頼が

1000石にて領主となったが、間もなく近くの鳥屋館に移り廃城となった。

現在は本丸主郭に愛宕神社と稙宗の墓碑が築かれ、地元の保存会により

管理されている。

中世山城とはいえ、さほど急なわけではないし

本丸近くまで自動車で行くことができる。駐車場(といっても空き地が

あるだけだが)から歩いて数分で本丸までたどり着くことができる。

二の丸、本丸の曲輪は非常によく残っており、特に堀切が非常に深いのが

印象的である。

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二の丸と本丸を隔てる堀切。右側の通路は曲輪から見下ろす形となり防御的だ

上の写真は二の丸の曲輪だが、本丸はもっと狭い。中世城郭というのは

そもそも山城が多く、そこは防衛のための城であり、生活の場

つまり領主のための館は城の麓に築かれることが多かった。

 

これは、伊具郡のみならず伊達郡などでもみられる構造であり

ましてや隠居城としてはこの程度の規模で十分であったのだろう。

 

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伊達稙宗墓所。永禄8年に78歳で没した。墓碑は明治23年に伊達宗基伯爵により建立された

本丸跡には伊達稙宗の墓碑がある。高さ3メートルはあろうかという大きな墓碑だ。
墓碑にもあるように従四位下左京大夫に叙せられた上

この時、幕府により陸奥国守護にも任官している。

本来、これは足利一門でもある大崎氏が奥州探題として担うものであるが

稙宗は大崎氏の勢力を凌駕する力を持ち、朝廷や幕府を抱き込んだわけである。

稙宗は晩節こそ家中をまとめきれなかったが、伊達氏を奥羽随一の大名に

成長させ、政宗に至るまでの礎を残した。

その功績は、極めて大きいといえよう。