白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

思いが伝わる電報。ぜひフォーマルで活用を

先日、僕の人生の師匠であり仲間である方のご尊父がご逝去

なさった時、遠方ゆえ(北海道だった)葬儀に参列することができないから

代わりに弔電を打ったところ、後日ご本人より御礼のメッセージが来て

大変喜ばれていた。

弔電を打った人はそれほど多くはなかったということで

なおのことであったろう。

 

自分の思いを電報に乗せて

 

僕は電報を極めて愛好している。フォーマルな意思表示として

これ以上の贈り物はないと思っているくらいである。

特に重宝するのは弔事の時と、選挙の時である。

僕も選挙に応援に入ることがよくあるわけだが、どこかの選対本部に入ると

支持していても他所の候補者陣営にはなかなか行けない。

「体が2つあればなぁ…」と切実に思う時である。

そこで、支持している候補者がめでたく当選した時は

「お手伝いに行けず申し訳ない!」の思いを込めて必ず祝電を送るようにしている。

すると、後日お会いした時に「先日はご祝電ありがとう!」と

言っていただき、「選挙どうでしたか?」と入っていきやすいという側面もある。

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頂いたご令状。先方のご迷惑とならないよう個人情報の部分は白塗りでご勘弁を

手紙なども自分の思いを伝えるという面では良いと思うが

いかんせん、重すぎる。かといってメールやフェイスブックなどでは

軽すぎる。やはり電報に落ち着くのである。

 

厳しい慶弔のルール。これどうにかならん?

 

昔のように電信局に行くだの、電話しなきゃいけないだの

面倒な手続きは必要ない。それに昔と違い、今の電報はオシャレである。

ぬいぐるみがついていたり、線香や花がついていたり

ギフト的な商品といっても過言ではあるまい。

デザインも自分好みで決められるし、本当に便利になったと実感する。

 

しかし気を付けなければいけないのは、公選法に違反する可能性があるというもの。

例えば、葬式に香典を持っていく時は、必ず本人でなければならなかったり

香典は必ず現金でなればならない(線香などではダメ)。

弔電や祝電へのお礼状は必ず自筆をしなければならない

選挙区内の親族以外の供花・花輪を出すことはできないなど

せめて慶弔は好きにさせてくれよ!と思いたくなるくらいである。

しかしどうしても金銭がかかるものなので、その分政治家側も苦労しているのだ。

 

なお、NTTの電報申し込みサイトは登録しておけば

次からスピーディーに注文することができ、オススメだ。

https://www.ntt-east.co.jp/dmail/

空母「加賀」発見、苦闘した日米両軍のシンボル

わが帝国海軍が誇る航空母艦「加賀」が北太平洋で発見された。

加賀はもともと戦艦として設計されたものだが

ワシントン軍縮条約で航空母艦に変更、1928(昭和3)年に竣工した。

基準排水量2万9500(3万8000)トン、全長238(247)メートル、最大搭載機60(72)機

1270人(1708人)もの乗組員がいた、帝国海軍の代表的な航空母艦の一隻である。

(カッコは改装後の数字)

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航行中の加賀。大きい煙突が側面についているのが特徴の一つ

第一航空艦隊第一航空戦隊(一航戦)に所属し、空母赤城とともに最前線で活躍した。

また、1941(昭和16)年には二航戦の空母飛龍・蒼龍、五航戦の翔鶴・瑞鶴も加えた

6隻で真珠湾攻撃に参加し、対米戦の火ぶたを切った。

インド洋作戦や豪州への空襲などにも参加し、まさに東奔西走の活躍であった。

1942(昭和17)年6月のミッドウェー作戦で赤城・飛龍・蒼龍とともに

沈没した悲劇の船としても知られている。

 

損傷した加賀、米軍も苦しかった!ミッドウェー海戦

 

77年後の本日、故ポール・アレン氏のチームが設立した

米国の調査チームが加賀を発見したことを発表、映像を公開した。

発見したポイントは、ミッドウェー環礁沖5400メートルの海底。

直立した状態で発見、飛行甲板は失われていたという。


Wreck of Imperial Japanese Navy Carrier Kaga

 

 

ところで、ミッドウェー海戦といえば

帝国海軍の航空母艦4隻がミッドウェー島攻略を目指して

米空母3隻を基幹とする迎撃艦隊と交戦、惨敗した。

しかし、実は米海軍の勝利は辛くも得たものであることがわかる。

この海戦は前述のごとく、ミッドウェー島攻略(MI作戦)を目的としていたため

大田実海軍大佐が率いる海軍特別陸戦隊(約2800人)

一木清直陸軍大佐が率いる一個連隊(約3000人)

を伴っていた。

一方、6月3日にアリューシャン列島ダッチハーバーを攻撃し

キスカ島などの島々を攻略する(AL作戦)のが

空母「龍驤」と「隼鷹」率いる四航戦である。

 

敗因は暗号解読だったのか?

 

重要なミッドウェー島の戦力はどうだったのか。

戦闘機、爆撃機各12機

海兵隊750人、駆逐艦1隻、5インチ砲6門、高角砲12門、機銃約100門

と見積もられていたが、もちろん敵艦隊の迎撃も予想されており

空母3-4隻、戦艦2隻、巡洋艦10隻、駆逐艦40隻、潜水艦25隻の来襲が

予想されていた。「エンタープライズ」「ホーネット」「サラトガ」である。

しかし、ミッドウェーは着々と防備が進み

海兵隊は3000人、多数の対空陣地が整備されていた。

戦闘機27機、爆雷撃機66機、飛行艇32機、旧式機も含めて150機が全兵力だった。

 

よく、「日本軍の暗号は漏れていた」のが敗因とみるふしもあるが

確かに、「AF=ミッドウェー」の確証が掴めなかった米軍がわざと平文で

「ミッドウェーでは真水が不足していると打電したところ」

日本軍の暗号電文が「AFで真水が不足している」と打ったためバレた

のは事実で、作戦目標や大体の開始時期などの暗号が解析されたが

5月26日以降は日本軍が暗号を変えたため、解読ができなくなった。

しかも米軍上層部は偽情報を疑い、必ずしも主要な敗因とは言えない。

とはいえ、ある程度の敵情分析までできたことは認めるべきであろう。

 

爆撃を避けまくる!日本空母の神業

 

日本時間で6月5日午前1時30分、ミッドウェーに接近した機動部隊は

戦闘機、爆撃機攻撃機合わせて108機からなるミッドウェー島攻撃隊を

発進させた。また、ミッドウェー島からも機動部隊に向けて攻撃隊を

発進させている。

ミッドウェー島への攻撃では、およそ20機の米戦闘機を破壊し

基地施設もいくつかを損傷させた。

一方、基地攻撃隊も日本艦隊に向けて攻撃を開始した。

 

だが機動部隊の空母を任せられている各艦の艦長はさすがといおうか

面舵、取舵、とよく回避行動を取り、一発の命中弾もなかった。

以下「第一航空艦隊戦闘詳報」によると、以下の爆撃に晒されている。

6月5日 

飛龍 4時56分 B-17爆撃機9機の爆撃命中せず

赤城 同じく爆撃命中せず

飛龍 5時8分 急降下爆撃機4機爆撃命中せず

飛龍 5時12分 急降下爆撃機6機爆撃至近弾1

赤城 5時13分 爆撃受けるも命中せず

蒼龍 5時19分 爆撃受けるも命中せず

赤城 5時20分 爆撃受けるも命中せず

飛龍 5時21分 爆撃受けるも命中せず

蒼龍 5時24分 爆撃受けるも命中せず

加賀 5時30分 急降下爆撃3機爆撃命中せず

蒼龍 5時35分 B-17爆撃機3機爆撃命中せず

まさに神業を言っても良いほどである。ミッドウェー島の運命も尽きたか

と見られた。が、実は最大のミスを南雲忠一司令官はしてしまうのである。

 

南雲司令官痛恨のミス。仇討に燃える飛龍

 

ミッドウェー島を攻撃した友永隊長は、念のため二次攻撃必要を打電した。

しかし、必ず迎撃に来ると思われていた米海軍を発見できていない。

南雲司令官は、爆撃機に装着する爆装を命じた。

この時、ミッドウェー島攻撃隊の帰還機の収容も行われており

各空母ではてんやわんやの大騒ぎとなっていた。

そこへ索敵機が「巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、後方に空母らしきもの伴う」

と報告してきたからパニックに拍車がかかった。

南雲司令官は「攻撃隊を収容せよ」と命令した。

実は、戦闘機の半分はミッドウェー攻撃に、もう半分は上空援護に

出していたため、敵空母を攻撃しようにも護衛機がいない。

従って戦闘機の収容を優先したのである。

それから再び爆装を対艦用の雷装に積み替えることとなった。

これらの作業は1時間はかかる。

7時24分、準備ができ次第攻撃隊発進の信号が出された時

SBDドーントレス爆撃機が赤城に襲い掛かった。

赤城は大きな衝撃とともに火柱が立ち飛行甲板に

置かれたままの爆弾にも誘爆し、火が燃え広がった。

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回避行動をとる飛龍。見事な操艦である

実は、この攻撃も幸運によるものだった。

米艦隊から発進した雷撃隊は上空援護の日本機によりほぼ全滅したが

マクスウェル・レズリー少佐とクラレンス・マクラスキー少佐に

率いられた急降下爆撃隊54機は、コースを誤って日本艦隊を発見できなかったが

一隻の日本の駆逐艦を見つけた。この駆逐艦は本隊に合流するに違いないと見て

駆逐艦に付いていくと、4隻の空母群を発見した。

急降下爆撃隊は勇躍、空母群に急降下爆撃を実施

赤城、加賀、蒼龍に命中弾を与え、日本海軍の勝利を潰した。

一隻残った飛龍は「我れ敵を撃滅せんとす」と反撃に出る。

乾坤一擲、発進した攻撃隊は、仇討とばかりに

米空母「エンタープライズ」に攻撃を開始、大破炎上させた。

さらに飛龍は攻撃隊を発進させ、米空母に命中弾を与え、炎上させた。

「飛龍が2隻やった」と残った部隊は歓喜した。

しかし、1回目の攻撃で炎上した「エンタープライズ」は驚異的な速さで

火災を鎮火させた。そこへ再び攻撃を受け、再度炎上したわけである。

13時40分、ついに飛龍も爆弾3発が命中、ここに帝国海軍の敗北が決定した。

加賀は消化不能となって16時26分にガソリン庫に引火して大爆発を起こして

沈没した。岡田次作艦長以下811人が戦死した。

母港・佐世保に慰霊碑が建てられているが、加賀の部品は全く引き揚げられていない。

船体自体はムリだとしても、一部を引き揚げて故国へ「里帰り」を果たしてほしい。

奇しくも2年前に護衛艦「かが」が就役したほか

今年は連合艦隊司令部のあった呉鎮守府開庁130周年ということで、イベントの最中である。

奇妙なタイミングでの発見、加賀から何らかのメッセージを感じることができそうだ。

伊達氏と長曾我部氏の意外な縁

先日、友人たちと打ち揃って蔵王町で行われた

仙台真田氏歴史セミナー「真田家と長曾我部家」に

参加してきた。これは年に一回、同町教育委員会が主催しているもので

仙台真田家当主・真田徹氏を講師に招き、講演会を実施している。

この真田家は、「日本一の兵(ツワモノ)」と称された真田幸村(信繁)

の次男・大八の家系である。大坂の陣において、幸村勢が伊達家の軍勢と

衝突した際、幸村は先鋒だった片倉重綱(重長、小十郎景綱の嫡男)の武勇を

見込んで、家臣をつけて子女を重綱の陣に送り、保護を求めた。

これを受けて、伊達家では真田家の系図を捏造し、幸村の叔父の子だとした。

さらに幕府からの追及を避けるため、片倉姓を名乗り大八の名を捨て

元服後の名前を片倉守信と称した。

この時はまだ伊達家食客として、片倉家の所領から1000石を給された。

片倉家の所領はおよそ1万7000石であるから、その中から1000石は

破格の待遇である。

その子・辰信の代に「既に幕府を憚るに及ばず」と藩命により

真田家を再興した。領地は300石とかなり減少した形にはなったが

片倉家の陪臣ではなく、仙台藩士として自立したのだから

悲願が達成された、というところであろう。

この領地が、現在の蔵王町にあたるのである。

 

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左から司会の油川さゆり氏、長曾我部維親氏、真田徹氏

 

さて、今回のセミナーでは、この真田徹氏に加え

長曾我部氏の末裔という長曾我部維親氏を招いて

講演会と対談が行われた。

 

中小豪族から土佐の覇者へ

 

長曾我部氏について振り返っておこう。

長曾我部氏は渡来系氏族の秦氏

土佐の曾我部郷長岡を領したことに始まる。

長曾我部氏の所領は、長岡わずか3000貫(およそ3万石)と

吉良氏(5000貫)や香曾我部氏(4000貫)らと比べて弱小に過ぎず、管領細川氏に仕えて

土佐の名門・一条氏の庇護下にあった。

例えば、長曾我部元親の父・国親は、細川高国から偏諱を受けており

元親も管領細川晴元から偏諱を受けている。

国親は、よくある戦国大名のように養子縁組や調略によって確固たる地盤を築いた。

その子、元親はひ弱で色が白く「姫若子」と言われた。

その元親が初陣を飾ったのが、1566年に国親が本山氏を攻めた長浜の戦いである。

元親は当時22歳、初陣を飾るには遅い年代であり、それだけ武将としての器を

疑問視されていたのであろう。

初陣の場では、秦泉寺豊後に槍の使い方を教わるほど武芸の手習いの経験がなく

「目を突きなされ」という豊後の助言に従ったところ

敵を突き崩すことに成功。これにより元親の武名は大きく上がることとなる。

その後の活躍は周知の事実なので省くが、元親の後を継いだのは

四男の盛親である。元親の嫡男・信親は知勇兼備で英邁な武将であったようだが

秀吉の命により、島津氏に攻められた豊後の大友氏の救援に向かうも

大敗北を喫し、まさかの討ち死に遂げてしまう。

次男、三男はいずれも他家に養子に出ていたため、盛親に当主の座が

巡ってきたが、技量に難があったようで、ひと悶着起きる。

 

さらには、長曾我部氏の大黒柱であった元親が卒去し

頼みの綱でもあった香曾我部親泰らの重臣もこの世を去った。

盛親が一人取り残された形となって迎えたのが、関ヶ原の合戦である。

盛親は、およそ6000の兵を率いて主戦場から離れた南宮山に布陣したが

あまりにも戦場から遠すぎたため、状況がよくわからないままであったという。

とにかくも、西軍についた盛親は一旦改易となり、後ほど堪忍領として

いくばくかの領地が宛がわれる予定だったようだが、盛親が上洛している間

改易に反対する地元の家臣団が蜂起し、戦いとなった(浦戸一揆)。

これにより、盛親の所領は没収。罪が減じられることもなかった。

その後も盛親は何回もお家再興の運動を行っていたが

豊臣家からの誘いを受け、大坂城に入城。これに旧臣らが従い

およそ3000人の長曾我部家臣が大坂の陣を戦ったといわれている。

有名な出城、真田丸でも長曾我部衆が半分を占めたが

不幸なことに、真田丸を攻めたのは藤堂高虎勢。

藤堂高虎には、長曾我部氏の旧臣も多く召し抱えられていたため

同じゆかりを持つ人たちがぶつかるという事態となった。

最終的に豊臣方は敗れ、盛親は死罪となる。もちろん、共に戦った

一族もことごとく自害するか処刑されている。

 

豊臣旧臣は伊達家を目指す

 

仙台藩とのつながりはこの後。長曾我部元親の娘・阿古姫は

長曾我部家臣・佐竹親直に嫁いだが、大坂の陣では盛親を頼って

大坂城に入城。大坂城が落城する際、息子といるところを

伊達政宗の軍に保護されるという、真田大八と同じ経験をする。

この阿古姫と一緒にいた息子は仙台柴田氏を継ぎ

柴田朝意となって、仙台藩重臣となる。

つまり、真田信繁と長曾我部盛親の息子はそれぞれ仙台藩に仕えたことに

なるのであるから、歴史とはまさに奇怪なものである。

さて、講演会に話を戻すと

長曾我部維親氏は、元親五男・左近大夫の子孫という。

ただ、賊軍の汚名を受けたがために、関係する資料は全て

処分されてしまっているとのことだ。

しかし、それなら左近大夫の子孫という根拠が限りなく薄いと

思うのだが、どうであろうか。

パネルディスカッションでは、真田氏当主・真田徹氏が

「(昌幸は)田舎にいたから、中央の情報が入ってこなかった。情報戦に負けた」

と言っていた。けだし、そのとおりである。

会津藩庄内藩桑名藩らと違い、仙台藩は京都の情勢を真剣に

考えようとはしなかった。もちろん、京都に在番した家臣はいたし

再三、藩主・慶邦に対して早々に上洛し、大藩として存在感を示すべきと

進言する手紙を出しているが、慶邦自身が上洛することはなかったのである。

この時期、仙台藩で洋式軍隊を整備しようと東奔西走していたのが

仙台真田氏の真田喜平太であったことは皮肉といえよう。

それにしても惜しかったのは、せっかく真田氏の領土である蔵王町で行ったのに

真田氏ゆかりの場所の紹介がほとんどなかったことである。

例えば真田氏の居館跡の復元や、ガイダンス施設などの整備など

ハード面で拠点が欲しいところである。

「とりあえずここに行けば真田幸村の情報は手に入る」

という核となるところから、聖地巡礼は始まる。

予算の絡みで大変なことだとは思うが、知恵を出して真田の郷が

復活することを期待したい。

伊達氏飛翔の地・丸森町を旅する

先日、仕事で丸森町まで足を運んだ。

丸森町宮城県内最南端にある町で、福島県はすぐそこである。

歴史的に極めて重要な地域であり、特に戦国時代は

伊達氏と相馬氏との領国の境目で、多くの城が築かれている。

今回、仕事の合間をぬって行ったのは丸森(丸山とも)城である。

 

稙宗隠居城から対相馬最前線へ

 

天文11年(1542)、伊達稙宗の三男・実元の上杉氏入嗣問題に端を発した

稙宗とその嫡男・晴宗との間で起こった「天文の乱」において

伊達家家中はもちろん、周辺の大名が介入しての大合戦となった。

最終的に稙宗は晴宗に家督を譲り隠居。その隠居城として築かれたのが

この丸森城という。

北から西にかけて阿武隈川の支流・五福谷川が流れ

北東側を国道113号が通る丘陵上に位置している。

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国道113号から丸森城跡を見る(中央の丘陵)

永禄9年(1566)相馬氏当主の中でも

伊達氏のライバルであり猛将の呼び声の高い

相馬盛胤は、本格的に伊達領に侵攻を開始した。

宇多郡(福島県)から丸森城のある伊具郡へ侵攻し、元亀元年(1570)には

丸森城、金山城などを陥落させる。

さらに、伊達氏の本拠地であった伊達郡福島県)へその矛先を向けるや

稙宗の孫・輝宗は、反撃に出る。天正9年(1581)に輝宗の子で

後の「独眼竜」政宗が15歳で初陣を飾ったのも、この時である。

伊達勢は相馬勢を撃破し、伊具郡の諸城を奪還。

伊達氏と相馬氏の争いは長期化の一途を辿るが、その3年後には

三春城主・田村清顕の調停により両者は和睦。とりあえずは伊達氏が

この地域を確保し、前線が南へ南へと移っていくと、この城の

戦略的重要性が薄らいでいく。

 

状態の良い曲輪群

 

慶長3年(1598)には、仙台藩の奉行職にも就任する大條薩摩守実頼が

1000石にて領主となったが、間もなく近くの鳥屋館に移り廃城となった。

現在は本丸主郭に愛宕神社と稙宗の墓碑が築かれ、地元の保存会により

管理されている。

中世山城とはいえ、さほど急なわけではないし

本丸近くまで自動車で行くことができる。駐車場(といっても空き地が

あるだけだが)から歩いて数分で本丸までたどり着くことができる。

二の丸、本丸の曲輪は非常によく残っており、特に堀切が非常に深いのが

印象的である。

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二の丸と本丸を隔てる堀切。右側の通路は曲輪から見下ろす形となり防御的だ

上の写真は二の丸の曲輪だが、本丸はもっと狭い。中世城郭というのは

そもそも山城が多く、そこは防衛のための城であり、生活の場

つまり領主のための館は城の麓に築かれることが多かった。

 

これは、伊具郡のみならず伊達郡などでもみられる構造であり

ましてや隠居城としてはこの程度の規模で十分であったのだろう。

 

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伊達稙宗墓所。永禄8年に78歳で没した。墓碑は明治23年に伊達宗基伯爵により建立された

本丸跡には伊達稙宗の墓碑がある。高さ3メートルはあろうかという大きな墓碑だ。
墓碑にもあるように従四位下左京大夫に叙せられた上

この時、幕府により陸奥国守護にも任官している。

本来、これは足利一門でもある大崎氏が奥州探題として担うものであるが

稙宗は大崎氏の勢力を凌駕する力を持ち、朝廷や幕府を抱き込んだわけである。

稙宗は晩節こそ家中をまとめきれなかったが、伊達氏を奥羽随一の大名に

成長させ、政宗に至るまでの礎を残した。

その功績は、極めて大きいといえよう。

日本企業の排除「戦犯企業」という名の矛盾

9月6日、韓国ソウルと釜山の市議会において

日本企業を事実上排除する「戦犯企業」不買条例が可決した。

複数のメディアによると、「戦犯企業」に指定されたのは

三菱重工新日鐵など280社以上。「戦犯企業」とは

「抗日抗争時強制動員などによりわが国民の生命、身体、財産に被害を負わせた日本企業」という*1

指定された企業には、ナチス政権下のユダヤ人よろしく「戦犯企業」ステッカー

を商品に貼ることを義務付けられるという。

これまで、韓国政府は司法と政治を結び付けていないという建前を

貫いてきたが、今回の条例で「仮面をかなぐり捨てた」といえる。

 

日本統治下で発展した朝鮮資本

 

ところで、わが国が朝鮮統治において産業振興にも力を入れた。

内地と朝鮮の出資割合は90:10であり、内地からの出資比率が大多数ではあったが

朝鮮総督府は財閥系企業の株主に朝鮮人を加えるよう指導を行い

時には取締役に就任することもあった。

1937年には、朝鮮人の経営する工場数は全体で2300事業所を超え

そのうち約160社が50人以上を雇用する「大企業」であった

その結果、現在大企業として君臨している企業が存在する。

京城紡績は、1919年に金性沫が設立した紡績会社であるが

満洲向けの兵站基地として目覚ましい発展を遂げ、19年は出資金25万円だったのが

45年の終戦までには1050万円にまで増資され、朝鮮のみならず満洲、北京、大阪

などに工場や営業所を設け、重化学、金融など多彩な事業を展開した。

そのため、カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子』によると

日本帝国主義の犠牲者になったとは到底考えられない」と断じている。

 

日本帝国の申し子?高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945

日本帝国の申し子?高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945

 

 

もちろん、これは一部である。例えば、終戦までに朝鮮人が経営する民間銀行は

7行もあり、朝鮮全体の預金残高19%、融資額は16%を占めたという。

京城紡織は1970年に京紡と名を変え、デパートやアパレル、繊維企業大手と

して韓国に君臨している。

 

親日企業でも免罪された「戦犯」のレッテル

 

わが国の朝鮮統治に多大なる貢献を行い、かつ戦争完遂にも協力した。

あえて戦犯企業というカテゴライズをするのなら

同社を戦犯企業といわずして何と言おう。仮に韓国政府が韓国国内の

企業(サムスンや現代も入るのだが)も同様に指定するのなら

一万歩譲って公平さだけは認めよう。しかし、わが国の企業のみを狙い撃ちにするのは

これまでの日韓両国の間で締結された日韓基本条約をはじめ

外交的な協定を無視するものであり、文明国にあるまじき暴挙である。

念のため、ハングル版のwikipediaも見てみたが、親日の「し」の字も書いてなかった。

まったく呆れかえる国家である。わが国政府は本格的に報復措置を行うべきと

言わざるを得ない。

知っておきたい選挙開票の仕組み

25日、仙台市議会議員選挙の開票が行われた。

投票率は36.7%で前回より1.82%上昇した。

もちろん、上昇したとはいっても、4割に届いていないわけで

決して高いとはいえないのが現状である。

基本的に、投票率が低い場合は組織票が多くなるので

(組織は利益誘導のため、能動的に投票する場合が多い)

有権者のための政治を広く求めるのであれば、多くの方が

投票に行くことが肝要である。

 

意外と知らない開票作業

 

僕も今回は地元の候補者の選対に参加させていただき

おかげさまで無事、当選することができた。

ぜひこの4年間、頑張ってほしいものである。

さて、選挙では「なぜ最初は横並びなんだ」という疑問が聞かれる。

つまり、20時に投票が終わり、大体は21時頃に開票の第一報が出るのだが

A   200

B   200

C   200

D   200

などと、横並びとして出ることがほとんどである。

もちろんそれには理由があるが、実際開票の仕組みを見てみないと

わからない場合がほとんどであろう。

素朴な疑問として出されるのであれば、まだお答えしようがあるのだが

「これは開票をコントロールしているに違いない」とかいう

人もいて、その場合はそっとしておくことにする。

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開票作業は体育館など広い場所で一斉に行われる

さて、投票が終わった後、投票箱は開票所に送られて一斉に開票作業がスタートする。

その際、100や200の枚数を「山」としてまとめる。

その山を積み重ねていくのが開票作業である。

従って、山ができあがるのが遅い場合、差が出てくる。

A   1200

B   1200

C   1000

D   400

といった具合である。AとBは良い感じに票が入っているが

Cは少々得票が減っており、Dに至っては一気に得票が減ったことがわかる。

こうしていって、最終的に

A   1573 当 

C   1470

B   1398.5

D   570.5

という感じで終わる。この選挙ではAが当選したことを表している。

ところで、Cがまさかの次点であることに注目したい。

最初は差がついていても、一気にその差が縮まることはよくある。

投票所は地域に複数の箇所が設けられるが、例えば最初の開票ではBの

地盤の投票所であった。開票の後半はCの地盤だったため

Cが追い上げを見せた。

よく開票速報などでトップを走る候補をさしおいて2、3位の候補に当確が

つく場合があるが、トップ以外の候補が強い地域の開票が残っている場合だ。

また、BとDには0.5の小数点がついていることもある。

これは「按分」といって、投票用紙に書いてある名前や所属党派が

どちらとも読める場合、均等に割り振るのである。

例えば、「菊地太郎」「菊地次郎」の2人がいたとして

投票用紙に「菊地」と書いてある場合、2人で分け合うため0.5人分となる。

ただし「菊地三郎」などと余計なことが書いてある場合は無効となる。

 

祝勝会は禁止

 

さて、Aは見事当選を果たしたが、この時に万歳三唱をする光景をよく見る。

そのまま祝勝会をやろう、というのが人情ではあるが

これは違法となる。選挙後の飲み会は自腹であっても「供応」と見なされて

最悪当選無効になるので注意が必要である。

ただし、お茶やお茶請け程度であれば、必要最小限の飲食となるので

問題ない。非常に厳しい制限が課される選挙であるが、慣れれば

それほど苦ではない。ただ、「知りませんでした」が通用しないから

責任者が注意する必要がある。

ここまで、基本的な内容ではあるが、たまには選挙らしいことも

書いていければと思う。

本日、占守戦ようやく終了

8月15日、僕たちは靖国神社にいた。

ここ数年、靖国神社で仲間たちと昇殿参拝をしては

戦没者の御霊安からんことをお祈りしている。

特に、わが宮城県の第二師団は、大東亜戦争の際南方で

大きな活躍とともに、犠牲も大きかったがゆえである。

 

戦後に戦端開いた対ソ戦

 

15日の極左暴力集団どもへのカウンターでも訴えかけたが

15日は確かに大部分の地で戦争は終わったけれども

卑劣なるボリシェヴィキ・ロシアがわが国を侵略し

未だ戦闘は続いていた時期である。

満洲樺太・千島列島が敵の猛攻にさらされた。

あまり知られてはいないが、赤軍どもは大挙して攻めかかったのは良いが

この期間まで、いかなる主要都市を占領できてはいない。

満洲樺太では地の利を生かした効果的な防衛線を展開したし

千島では最北の占守島で釘付けにされていたためである。

この占守島、わが帝国陸海軍が赤軍相手に優勢に戦闘を展開し

死傷者ともに赤軍のほうが圧倒的に多かったうえに、赤軍占守島の大部分を

占領することができず、犠牲ばかりを増やしていたのである。

その要因は

1、千島列島は攻撃を受けておらず、無傷であったこと

2、対米戦を見越して、ある程度の防備を整えていたこと

3、赤軍の上陸部隊の準備不足

が大きい。

占守島は千島列島最北端であり、ボリシェヴィキロシアとの国境の島であったが

対米英戦が始まり、アッツ島が玉砕すると、米軍の本土上陸に備えるため

千島列島も防備の対象になった。

というのも、大東亜戦争が始まる前は、ボリシェヴィキロシアへの米軍の援助物資

を搭載した船が、千島を通ることがあった。

本当であれば、中立法が適用されるため、これらは違反となる。

しかし、対米関係悪化を恐れた帝国政府は、これらを黙認した。

つまり、米軍の輸送船は決して珍しいものではなかった。

また、赤軍の上陸戦の稚拙さは呆れかえるほどだ。米軍のような激しい準備砲撃はなく

それどころか、舟艇が転覆するため、戦車や重砲の陸揚げができなかったのだ。

一方で占守島には第91師団のうちおよそ8000人のほか

戦車第11連隊(中戦車、軽戦車合計60両以上)が配備されていた。

小規模ながら航空兵力も備えていたため、輸送船に対して陸攻3機による

攻撃も行われている。

 

勇士たちの苦難、シベリア抑留

 

わが帝国陸海軍は8月18日、玉音を拝して武装解除の準備を進めていたが

突如、敵の上陸が行われたため自衛戦闘に突入した。

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占守島に残る戦車第11連隊の中戦車(フォートラベルHP)

激しい戦闘の末、戦車第11連隊の池田末男連隊長が壮烈な戦死を遂げるなど

わが軍に大きな被害が出たものの、赤軍の橋頭保は広がることなく

むしろ効果的な反撃により、押し返される有様であった。

そのような中、大本営より停戦命令が届いたこともあり

赤軍との交渉を開始、軍使が捕らえられるなど紆余曲折はあったものの

この21日に、堤師団長が降伏文書に調印、千島の戦いは終わった。

しかし、千島の勇士たちは、わが国への凱旋ができなかった。

復員できると乗り込んだ船は彼等の故郷に向かわず、有無を言わさず

シベリアに拉致したからである。彼等の困難はまだ終わることはなかった。

 

われわれはわが国の国土を守り、かつ不法にシベリアに拉致された

勇士たちを顕彰してもしきれない。

常に忘れることなく、伝え続けていかなければならないと

決意を新たにした次第である。