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「ガルパン」から見える帝国陸軍の戦術転換

目下上映中の映画「ガールズ&パンツァー」。

同作品では、各国ごとの戦闘教義すなわち「ドクトリン」が

反映されていることでも知られ、それも魅力の一つだ。

その中で、わが国の戦車で構成される「知波単学園」は

その名の通り、九七式中戦車「チハ」を主力として使用している。

同学園は、作品中で「突撃バカ」と嘲笑されているのだが

実際ことあるごとに突撃を行うので、あっさり狙い撃ちをされて

壊滅状態となっている。

 

帝國陸軍は「突撃バカ」か?

 

確かに、軍歌「歩兵の本領」の中にも「退く戦術我知らず」という

歌詞がある。実際はどうだったのか。

昭和15(1940)年発行の「歩兵操典」を見てみよう。

実はこれ、数年前に古本店で見つけ購入したもの。

 

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昭和15年に発行された歩兵操典。実物は貴重である

ちなみに「歩兵操典」とは、陸軍省が公式に作成をしたもので
行進や射撃の姿勢など細かいところから、小隊・中隊、その他各科の

戦闘中の行動に至るまで定められている。歩兵の教科書と言って良い。

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中隊の防御戦闘部分。なかなかシビアな内容だ

確かに、小隊・中隊レベルで退却について述べた部分はなかった。

代わりに、「防御」の項目で述べられている。それを抜き出すと

我が陣地に侵入するも最後の一兵に至るまで

奮闘し、あくまでその地を固守すべし (口語訳)

とある。敵に我が陣地への侵入を許した場合、最後まで戦い抜けと

ある。撤退戦を想定した操典ではなかった。

通常撤退戦は、尻尾を巻いて一目散に逃げるわけではない。

遅滞戦術といって、後退しつつ敵を迎撃。味方の撤退する時間を稼ぎ

後方での迎撃態勢を整えるのである

余裕がある場合、遅滞戦術を行いながらもカウンター攻撃を食らわせ

逆に形勢を逆転させる戦術もあった。

例えば、ドイツのマンシュタイン元帥による「後手からの一撃」が有名であろう。

独ソ戦において、スターリングラード攻防戦で手痛い打撃を被ったドイツ軍は

遅滞戦術により、ソ連軍の追撃を遅らせていたが、急激な追撃により

ソ連軍が疲弊すると、ドイツのマンシュタイン元帥は即座に反撃に転じ

ソ連軍を粉砕、失陥したハリコフの再奪還に成功した。

このような遅滞戦術を帝国陸軍は持っていなかったとはいわないが

現場の将校が把握していたかは疑わしい。

そのために、全体的な戦術を大幅に変更した後も、現場部隊においては

相変わらず突撃による全滅が相次いだ。

 

ペリリュー島の戦いから戦術を大幅に転換

 

帝国陸軍が大幅に戦術を変更したのは、明らかに昭和19(1944)年

9月に始まったペリリューの戦いである。

同年7月のサイパン戦までは、上陸した敵主力に対して、まだ陣容が整わないうちに

一斉に攻撃を仕掛け、被害を出させることに主眼が置かれた。

もちろん、陸海軍守備隊はそのようにした。しかし、最初こそそれは有効だけれども

海岸での戦いでは、沖合の敵艦隊による艦砲射撃や護衛航空機による

爆撃の脅威にさらされ、海岸の陣地は次々と沈黙していったのである。

一方、ペリリュー島では海岸における戦いはなるべく避け、内陸部に引き寄せてから

攻撃を仕掛けた。しかも上空からの視界がきかないジャングルでの、さらに小規模部隊

による斬り込みや洞窟に潜んでの奇襲攻撃だったから、米軍は攻撃による死傷者より

いつなんどき攻撃されるかわからないプレッシャーにより、精神に異常をきたす兵士が

続出した。最も被害が多かったのがいわゆる「戦争神経症」であったという。

その戦術はその後、硫黄島や沖縄、フィリピンなどで採用される。

橋本衛「硫黄島決戦」によると小笠原兵団の堀江参謀の述懐として

従来、島嶼の防衛では敵の半渡に乗じて攻勢に乗じて攻勢に転じ

これを海中に突き落として撃滅するというのが

イロハであった。

栗林兵団長はこのイロハを放棄せられた。そして

「地下に入ってモグラとなり、上陸して来る敵地上部隊

とだけ戦う」という新戦法に出られた。 

としており、これまでの戦術を放棄している様が見て取れる。

この戦法により、硫黄島での戦いは死傷者を合わせて我が軍より

多くの出血を強いることに成功し、米国では軍に対して

批判が巻き起こったという。

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内陸に向けて前進を始めた米軍に向け突如砲撃が開始された(出典:時事ドットコム

まずは史実への興味を持って

 

話は戻るが、同じような戦術の転換が「ガルパン」の中で描写されている。

積極的な攻勢は避け、常にハラスメント攻撃を仕掛けることにより

相手を休ませず、疲弊してきたころに攻勢を仕掛けるものだ。

同作品には、このように史実に基づいたネタも各所に織り込まれている。

僕もこれを見て「はて、そういえば実際はどうだったのかな」と

古い資料を引っ張り出して改めて調べるきっかけとなった。

読者諸氏もぜひ、アニメでもドラマでも構わないので、それがきっかけとなり

「史実ではどうだったのだろう」と興味を持ってもらいたい。

それもまた、制作サイドとしては嬉しいのではないだろうか。

硫黄島の写真については時事ドットコム

https://www.jiji.com/jc/d4?p=bij412-NH65312&d=d4_mili

ガルパン最終章第2話開始、聖地巡礼に弾みへ

全国のミリタリーファンに人気の、「ガールズ&パンツァー 最終章」(以下ガルパン

の2話が本日、上映開始した。

同作品は、2012年10月から翌年3月までテレビアニメで放送されたもの。

OVAやテレビアニメが大ヒットし、舞台となった茨城県大洗町

多くのファンが訪れたことが「聖地巡礼」のモデルケースとなり

観光庁茨城県から表彰されたこともある作品だ。

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地元の茨城交通のラッピングバス(16年5月撮影)

例えば、大洗町では大きなイベントとして、同商工会が主催する「海楽フェスタ」や

あんこう祭」があるが、いずれも入場者数は右肩上がり。

2018年のあんこう祭(11月)には約13.5万人が来場、12年に約6万人だったのが

倍以上、過去最多の来場者を記録した。

主人公の西住みほ役、渕上舞さんらが毎年トークショーに出演することもあり

大盛況となったが、それと同じくらいの多彩な物販やあんこうの吊るし切りなどの

企画に観客は大喜び。さらに来場者は中心部商店街へ回遊に繋がっている。

 

中心部商店街の売り上げが増加

 

15年に筑波大学が実施した調査によると、その中の一つである

曲がり松商店会の小売店21店のうち、平日の来客者のほとんどは

ガルパンファンであるが、土日祝日になるとガルパンファンが9割を占める

店舗が9店舗に上ったという。さらに、売上高も放送後は6店舗が1.2倍となり

2~7倍に増加した店舗もあったそうだ*1

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アニメに登場した店舗には人が集まる

もちろん、課題も多い。店舗ごとに人は来るのだが

客単価は高くないのである。200~300円といわれているが

店舗売り上げとしては圧倒的に低い。来客の呼び水としては気軽に買えるものは

当然必要だが、その店独自の商品も開発することが重要だ。

ただ、マグカップやTシャツなどは販売しやすい一方、リピーターは既に

保有している人が多いため、例えば定期的に商品を見直すか

消費物にすべきだろう。定期的に商品の入れ替えを行えば

既存商品への価値が向上するし、新商品への需要も増加するとみられる。

 

期待以上の出来!ファンは再び大洗を目指す

 

さて、最終章第2話であるが、初日ということもありMOVIX仙台は大入りであった。

期待を裏切らない、極めて予想以上の出来であったといえよう。

戦車それぞれの特徴がよく描かれていたし、ストーリー展開も

(一部詰め込みすぎとも思ったが)キャラクターの魅力がよく

描かれていたと思う。とにかく本作は細かい描写にもこだわりが多い。

従って、一回目に見つけられなかったということで

リピートしたい動機づけはしっかりしているといえよう。

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入場者特典のミニ色紙。キャラ原案の島田フミカネ氏によるもの

興行収入サイトなどを見ると、初日の滑り出しは好調のようである。

この調子で、興行収入を伸ばしていくものとみられており

それに伴って、ファンの「聖地巡礼」により弾みがつくのではないだろうか。

アニメと連動し、まさに「打てば響く」動きをする大洗町

どのような面白い動きを見せてくれるのか、今後も楽しみである。


【再掲】『ガールズ&パンツァー 最終章』第2話 劇場本予告(60秒)

*1:茨城県大洗町における「ガールズ&パンツァー」がもたらす社会的・経済的変化-曲がり松商店街と大貫商店街を事例に-http://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/pub/WWW/nenpo/038/03.pdf

夏の時期は定禅寺通の木陰がおすすめ

全国的に夏の装いとなった。

梅雨入りしたおかげで、天気もあまり良いとはいえないわけだが

最近僕は定禅寺通あたりで仕事をすることが多く

同じ中心部でも、東二番丁などと違って、定禅寺通はケヤキ並木のおかげで

涼しいのである。定禅寺通は戦後の復興計画により新たに作られた通りではあるが

この通りは武家屋敷が多かったがゆえ、もともと緑は豊かであったようだ。

しかし、仙台空襲により中心部は灰燼に帰してしまったところ

戦後の復興計画により青葉通と並んで広い都市道路がつくられることとなった。

それが定禅寺通である。

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昭和20年後半から30年前半の定禅寺通。まだ並木は形成されていない

この時、仙台市長は岡崎栄松で、岡崎は関東大震災の際

陣頭指揮をとった後藤新平の部下だった人である。

 

未来を見越した大規模な復興事業

 

岡崎は今後の仙台には、幅員の広い道路こそが物資輸送等に必要だと考えていた。

日本不動産研究所の伊藤盛男仙台支社長(当時)が

2001年に仙台市議会で以下のように参考人として意見を述べている。

 要するに、岡崎栄松市長、15代から18代までの昭和21年から昭和32年まで在任されていた方なんですけれども、こういう広い道路をつくるに当たって、飛行場の滑走路をつくる気かと言われたのを、私、小学生ながらにも今でも覚えております。今では、X橋から西道路まで結ぶ大変重要な幹線道路として役目を果たしていて、私たち今の時代、何ら当たり前のように思っているという一つの事実があります。

 あまりに広すぎるため、当時は必ずしも満場一致で推進とはいかなかったが

岡崎市長の辣腕により進め、結果的に後世に評価されている。

その後、仙台では「彫刻のあるまちづくり」運動が行われ

多くの彫刻が定禅寺通の緑道に展示された。

今では定禅寺通の景観になくてはならないものとなっている。

 

今こそ変革の政治家を

 

仙台というのは、とかく変わったこと、新しいことには消極的である。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を遺す」という言葉があるが

岡崎は死して道路を残す、といえよう。

わが仙台でも、信念を持って大きな改革に取り組む政治家が欲しいものである。

残念ながら今の市長に望むべくもないが…。

VRアニメという新境地!「狼と香辛料VR」

新しいヴァーチャル体験。その新境地へのチャレンジが始まった。

世界中で人気の小説原作のアニメ「狼と香辛料」という作品がある。

見た目は少女と変わらないが、神として祀られるほど

長い時を生きる賢狼ホロと、行商人のロレンスが偶然出会い

ホロの故郷を目指して旅をする、というもの。

行く先々の街で商品を売り買いするため、初期市場経済の仕組みを

知るためには、非常に適した作品といえる。

独特の世界観と、魅力的なキャラクターが多くの人の心を掴み

世界中でファンが多いことでも知られている。

 

VRアニメという新体験

 

その「狼と香辛料」をVRで体験するという試みが行われている。

タイトルは「狼と香辛料VR」。開発元は同作品の原作者である

支倉凍砂氏が主宰するサークル「SpicyTails」とジェムドロップ(株)。

開発に当たっては、クラウドファンディングを用いて資金を調達し

2018年11月に実に7,000万円超を集めた。

今年6月4日、ついに作品が完成し、同時にゲームプラットフォーム「steam」

OculusStore」での発売をスタートした。

僕も同作品が好きだったこともあって、さっそくプレイしてみた。

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まるでロレンスになったかのようなリアルさを体験できる

これは、VRアニメであってゲームという側面はそれほど深くない。

また、30分程度でクリアできるとあって「物足りない」という声も

あるようだ。

だが、自分がアニメの中に入ったかのように部屋のあちこちを見渡すことができ

ホロと会話できるのはとても新鮮な体験だ。

価格も2500円前後とお得な設定。VRに対応していない場合

PCだけでも楽しむことができるので安心。

VRアニメという新しい体験をするだけでも、十分ではないだろうか。

ましてや、同作品ファンなら必見だろう。

これからのコンテンツとして、先鞭を付けた同作品。

今後の動きに目が離せない。


『狼と香辛料VR』PV (ショートバージョン)

 

狼と香辛料VR

http://spicy-tails.net/saw-vr/

ツイッター

https://twitter.com/spicytails

神道と仏教は一緒なのか?

先日、会社の人から

「友だちとお寺に御朱印をもらいに行ったら

 『経文は持ってきましたか』と言われた」という。

さもありなんである。そもそも御朱印というのは

仏教寺院において、経文を納めた証として始まったのが

最初だからである。それを神道が真似して始めたため

パワースポットブームと相まって、現在では御朱印集めを

趣味としている人も多いようだ。

僕の場合、寺院の御朱印はできる限り受けないようにしている。

お寺の御朱印が嫌だというわけではなく、キリがないからである。

その代わりといってはなんだが、神社の御朱印を頂いている。

もちろん、参拝をしてからである。

勘違いしないでほしいのは、御朱印というのはスタンプラリーではない。

従って、「この神社にお参り致しました」という証で頂くのが正当である。

最近、御朱印を集める人が神職の方に文句をつけるなどしてトラブルになる

ケースが頻発しているが、そもそも御朱印は印刷するものではない。

参拝者がお願いして、神職の方に手書きで書いていただくわけで

時間がかかるのは当然である。その間、お守りを見ていたり

境内の景色を眺めるなどして待つのが当たり前である。

ぜひ、気を付けていただきたい。

 

古代に始まった「神仏習合

 

ところで、神道が仏教の真似事をして良いのか、という疑問もあろう。

結論から言えば、仏教はわからないが神道的には問題ない。

そもそも神道と仏教は江戸時代まで「神仏習合」といい同一視された部分もあった。

古代から仏教は広まっていたためである。

それは聖武天皇国分寺建立の詔を発布したことからもわかろう。

日本書紀』によると、用明天皇(在位585~587)を

天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」とあり、古代でもかなり昔から

仏教は尊ばれた。

また、徳川家康諡号である「東照大権現」もまた神道と仏教の習合である。

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笹谷峠にある仙人大権現の石碑。山岳信仰に深く根付いている

「大権現」というのは、仏が仮の姿で地上に表れたことをいう。

神道大辞典』によると「この権現の思想、また本地垂迹説により

奈良時代より菩薩の称号を諸神に適用することが行われた」とあり

承平7年(937)に、宇佐八幡宮に菩薩号を付したのが初という。

その後、長らくこの習合は受容されてきたが

明治元年廃仏毀釈により、このような神号は禁止された。

大東亜戦後、制度上国家神道が廃止されると、再び神仏習合

復活してきている。このように、神道と仏教はそもそも一緒になった期間が

多かったのだから、双方は親和性が高いのである。

現在でも残っている仏教の名残を探してみるのも、神社めぐりの醍醐味といえる。

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大崎市古川の八坂神社境内にある鐘楼。神仏習合の名残である

 

交流人口増加に寄与できるか?「イーレ!はせくら」

先日、新しくオープンした「イーレ!はせくら王国」という施設に行ってきた。

場所は柴田郡川崎町にある、支倉地区の支倉小学校跡だ。

この支倉小学校、2012年に廃校となった。

その校舎を、新たな交流・商業施設としてリノベーションしたのが

「イーレ!はせくら王国」だ。施設は、物産コーナー、レストラン

イベント、キッズスペースなど。

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旧支倉小学校をリノベーションした

正直、川崎町の中でも国道286号から離れていることもあり

アクセスは良いとはいえない。

 

実は支倉常長の故郷!

 

では、なぜこの施設を活用しようとしたのだろうか。

この川崎町の支倉地区、実は読んで字のごとく支倉常長の故郷なのである。

支倉常長といえば、伊達政宗の命を受け、ヨーロッパに渡ったことで有名だ。

スペイン王国との通商交渉が主な目的だが、常長ら使節は多くの試練を

乗り越え、アカプルコーセビーリャーマドリードに到着した。

国王・フェリペ3世と謁見した後、バチカンに赴きローマ教皇にも謁見。

ローマ貴族に叙せられた。常長は主君・政宗の書状を無事届けることに成功

カトリックに入信し、ドン・フィリッポ・フランシスコと洗礼名を名乗った。

肝心の通商交渉は物別れに終わり、失意の常長はフィリピンを経て仙台に戻ったが

折り悪く、幕府はキリシタン禁止令を公布しており、副使を務めた

宣教師のルイス・ソテロは火刑に処された。常長も仙台に帰藩しても

幕府を憚って、大々的な歓迎などはされず、後も隠棲に近い状況で帰国後2年で

病死した。しかし、彼がもたらした数々の資料や業績は、後世に高く評価される。

常長が持ち帰ったローマ公民権証や教皇パウロ5世の肖像画といった資料類は

他に類例がなく、2001年に国宝に指定、13年にはユネスコ記憶遺産に認定された。

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洗礼した支倉常長肖像画。スペイン滞在中に描かれたものと伝わる

それだけではなく、スペインには「日本」を意味するハポン姓の住民がおり

使節団の血筋ではないか、といわれていたり

珍しいところでは、常長は日本人で初めてチョコレートを食べたと伝わっている。

そのエピソードから、「イーレ!はせくら王国」ではカカオを使ったカレー

カカオを使った揚げパンなど、町の新たな特産品として売り出し中だ。

見どころはそれだけではない。

この施設の背後には、円福寺があり、そこが支倉家の墓なのである。

常長の領地は仙台市の北西部にある大郷町だったため、そこにも墓がある。

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墓の背後にある4~5メートルはある巨大な板碑が存在感を放つ

この墓は山の斜面に建てられているが

支倉氏の居城である上館城跡でもある。支倉氏はもともと伊達氏譜代の家臣であり

境を巡って砂金(いさご)氏と争っていたという。

譜代の臣ではあったが、中程度の家臣に過ぎなかった。

とはいえ、川崎町は秋保氏や最上氏、粟野氏と勢力を接する場所で

そこに配置されたということは、伊達家の信任が厚かったとも

いえるのではなかろうか。

そのような歴史を経て、近年支倉常長の顕彰の動きが活発となっている。

他の市町村のご他聞に漏れず、川崎町も人口減が著しい。

仙台市に隣接し、かつ東北自動車道が通り、山形市との間に位置している割には

大規模な工業団地がなく、土地区画整理事業も近年はほとんどないためだ。

つまり、整った交通インフラと地の利を生かしきれていないところに

この町の課題がある。

この「イーレ!はせくら」が川崎町を変えるほど交流を生む施設にはならないだろう。

しかし、もし川崎町が変革を求めるならば、交流人口を増加させる拠点の一つとして

機能することは間違いない。

 

イーレ!はせくら王国

https://www.ire-hasekura.com/

ブッダに学ぶ「死生観」

最近、事故や殺人が巷で頻発している。

暴力や憎しみが連鎖を生み、収束を見えることはない。

特に、先日発生した川崎・登戸大量殺傷事件では衝撃を受けた。

先ほどまで元気に歩いていた子どもや大人が、隣にいた人が

急に命を奪われる。これほど理不尽なことはあるまい。

この事件を聞いて、僕は「ブッダならどう説くであろうか…」と考えた。

別に僕は熱心な仏教徒ではないが、死生観に関していえば

最もしっくりくるのが仏教の教えであったからだ。

 

ブッダ最期の言葉「もろもろの事象は必ず過ぎ去る」

 

ところで、ブッダは自身の今わの際にどんな言葉を残したのか。

彼は旅の途中、病を得てクシナガラにおいて重篤化し

最後の説法を行って、静かに入滅した。

最後、弟子に向けて述べた言葉は

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」

である*1

ブッダはあらゆる執着を捨てることを義務づけた。従って、ブッダ死後

仏像や経典はほとんどが残されなかった。

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ギリシャやシリアなどの影響を受けたガンダーラ

現在残っている経典は、ブッダ亡きあと、弟子たちが集まって

ブッダの言葉を集めたものである。アーナンダ、シャーリープトラなど

十大弟子といわれている人々が仏教教団を率いた。

人の死についてブッダはどう考えたか

 

形あるものは全てが滅する。それは般若心経の「色即是空」である。

全ては空なのである。その一方で「空即是色」も誕生した。

空から色が生まれる、というものである。

これは一種の輪廻の考え方ともいえそうだが、失うことばかりではない

ことを考えれば、救いの言葉といえようか。

人はいずれ死を迎える。しかし、子どもの死についてブッダはどう考えたのであろうか。

ブッダ死後、インドでは異民族による征服やイスラム教徒の勃興などがあり

仏教は衰退していった。その時、彼らは何を精神のよりどころとしていた

のであろうか。

今後も勉強を続け、その都度まとめていきたい。

 

*1:中村元訳「ブッダ最後の旅」