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憲法9条に反対した共産党、新左翼との共闘も?

選挙が近づいてくると、共産党周辺がざわつくのはいつものことである。

共産党はトップページで「安倍9条改憲NO!」と呼びかけているわけだが

そもそも共産党憲法9条に反対していたのはご存知であろうか。

昭和21年8月24日の帝国議会において、共産党所属の野坂参三議員が

 我々は我が民族の獨立を飽くまで維持しなければならない、日本共産黨は一切を犧牲にして、我が民族の獨立と繁榮の爲に奮鬪する決意を持つて居るのであります、要するに當憲法第二章は、我が國の自衞權を抛棄して民族の獨立を危くする危險がある、それ故に我が黨は民族獨立の爲に此の憲法に反對しなければならない

 と述べている。「自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある」と

しているところに注目である。「自衛のための戦争ならば良い」と見ることに

なる。実際、野坂は「戦争放棄」のみは提起したものの、軍隊の放棄には

明確に反対した。

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左から徳田球一野坂参三、志賀義雄(wikipediaより)

さらに、同年6月28日の本会議においても野坂は

「侵略された国が自国を守るための戦争は、われわれは正しい戦争と言って

差支えないと思う」とまで述べているのだ。

野坂だけではない。この憲法改正案に反対したのは、徳田球一

共産党所属の6人であった。

つまり、現在「憲法9条を守れ」とご本尊の如く崇め奉っている共産党

そもそも憲法9条に反対の立場を示していたのである。

「国軍」はダメだが「党軍」なら良い?

さて、それでは共産党は軍を無くそうと考えているのだろうか。

実はそうでもない。産経新聞政治部「日本共産党研究」によると

1994年7月に行われた党大会の決議を引用している。そこでは

急迫不正の主権侵害に対しては、警察力や自主的自警組織など

憲法9条と矛盾しない自衛措置をとることが基本である。 

 としている。産経新聞では「自衛隊は認められないが、新たに自衛軍のような

組織をつくることを否定してはいないのである」と断じている。

同じことは別冊宝島日本共産党の思想と正体」でも指摘されているが

この憲法9条には大きな落とし穴がある。

即ち、この憲法9条は「国家」に対して求めているのであって

政党に対するものではない、というものだ。

はてそういえば…と思い当たる読者もいよう。

お隣の中華人民共和国人民解放軍は、厳密には国の軍隊ではない。

「党が指導する軍隊」なのである。さらに言うと、人民解放軍現役軍は国家の軍隊

と定められているが、予備軍は定めがない。中国共産党の指示に従う戦力なのである。

またソビエト連邦が率いるソビエト連邦軍の前身である「労農赤軍」もまた

ソ連共産党の軍隊という立ち位置であった。

武装闘争が仇に…方針転換余儀なく

同じように、わが国の共産党においても実際その動きはあった。

しかし、1949年に35議席保有していた共産党は、1952年の衆院選において

議席を失い、武装革命路線を放棄せざるを得なくなった。

この動きに失望した新左翼セクトは、日本共産党を「日和見主義」

共産党はこの一連で分派した新左翼を「極左冒険主義」と罵り合っている。

最近になって、これらが反原発運動や安倍内閣倒閣運動など

共闘する様子が映し出されており

今後もより注意を要する勢力となってきている。

 

第一党が首相にならない?戦前の首相の決め方とは。

今月終わりから、4月まで統一地方選が始まる。

さらに7月には、参院選も行われるということでまさに選挙イヤーといえる。

10月から消費税が増税するため、その影響も選挙に影響するとみられる。

戦前は第一党が首相になることは少ない

現在では、国会において首班指名選挙が行われ

国会議員の得票数が最も多い政党の代表者が内閣総理大臣になる。

しかし、戦前の帝国議会では必ずしもそうでなかったことはご存知だろうか。

国家を総覧するのは天皇陛下であり、国務大臣はそれを輔弼する役割であったから

天皇陛下より指名された人物が総理大臣になる(大命降下)のが通例であった。

とはいえ、天皇陛下が独自にお決めになる場合、それは絶対君主制である。

わが国では奏上について天皇陛下がいかにご不満であろうと、裁可するのが

決まりであった。英国式の立憲君主制を手本とされていたためである。

では、首相となる人物は誰が決めたのか。

キーパーソンとなったのが「元老」の存在である。

わが国で初の首相となった伊藤博文は、政党政治の確立を目指して

大日本帝国憲法の制定を主導し、1890(明治23)年無事に施行を見たわけだが

その2年前の1892年、伊藤、黒田清隆山県有朋井上馨松方正義の5人による

元勲会議(黒幕会議)が行われた。松方内閣は指導力がなく、あっさりと総辞職

した上、後継首相を推薦する能力もなかったからである。従って、後継首相を

元老会議によって決定する必要があった。

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薩長閥の重鎮として君臨した伊藤博文wikipediaより)

しかし、伊藤はなぜ元老による首相推薦にこだわったのか。

伊藤之雄『元老ー近代日本の真の指導者たち』によれば、天皇陛下

内閣総理大臣を指名されることについて、間に元老の存在があったほうが

首相が不適格であったとしても直接の責任を追及される恐れがないこと

そして、初期の政党政治は未発達なものであり、欧米などにみられる

二大政党政治には時期尚早と思われたためである。

薩長系の有力者たちの中でも、特に山県有朋政党政治自体に反発していて

1900年に伊藤が立憲政友会を設立した時には山県は激怒し、伊藤と対立してしまうのである。

その後、伊藤系内閣(西園寺公望など)と山県系内閣(桂太郎など)が交互に入れ替わるが

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政党政治に反対し、伊藤と対立した山県有朋wikipediaより)

最大で、前述の5人に、大山巌西郷従道を加えた7人が元老として君臨する。

もともとは「元勲優遇の詔」を受けた人物が元老とされたが

これは憲法の規定にはないため、当然それに対する批判も存在した。

1908年には報知新聞が英国の政党政治を見本に、憲法上根拠のない元老が

政治を牛耳っていると批判した。読売新聞も、元老の存在がある限り

立憲的国家は望めない、とまで書いているのである。

元老は最終的に、西園寺公望が補充され、最後の元老として少しずつ権力は

縮小されていったが、西園寺薨去後は総理大臣経験者らでつくる「重臣会議」が組織され

戦後、日本国憲法の施行まではこれらにより首相候補を推薦

それを受けて、天皇陛下の大命により首相が決まることとなる。

 

プロの解説付きで見る「はたらく細胞」

季節の変わり目か、体調を崩している人が多い。

僕の会社でも、体調不良で休んでいる人が出てきた。

すわインフルか!?と思ったところ「熱がないから違う」とか言うけど

最近では発熱がさほどではないインフルも出現し始めているというから

気を付けなければいけない。

外国人医師が「はたらく細胞」で病理を解説

はたらく細胞」というアニメ作品があって、細胞を擬人化したものだが

擦り傷修復の過程や、がん細胞との闘いなど非常にわかりやすく描かれていて

とても勉強になると評判だ。

昨年から今年初め、インフルが大流行した際には、特別編として「風邪症候群」

が無料で配信された。

hataraku-saibou.com

さて、この作品は海外でも人気で、特に専門家から好評を博しているという。

現役の医師、エドホープ氏は「Dr Hope's Sick Notes」というチャンネル名で

YOUTUBEにこの作品を基にした細胞や病理学の解説を行っている。

それをユーザーが邦訳し、動画共有サイトニコニコ動画にアップしているのである。

例えば、がん細胞がいかに体に害をもたらすかということである。

がん細胞が、細胞分裂の異常であることは知られている。

我々の体内では、常に細胞分裂が行われているが、毎日1000ほどの

細胞の異常が起こっている。それでも我々の体内ではその異常をチェックする機能があり

それを通過したとしても、免疫細胞によって駆除される。

免疫は、まず異常がどのようなものかを認識し、それに対して効果的な攻撃を行う。

しかし、がん細胞はめちゃくちゃな増殖を繰り返すため、免疫の認識から

逃れることができてしまうのだ。

さらに、普通の細胞に回すはずの栄養も奪ってしまい、免疫の攻撃が普通の細胞を

傷つけることから炎症も起こる。がん自体は攻撃する能力を持たないから

厳密には「がん」という病名は存在しないのだそうだ。前述したように

普通の細胞を浸食したり、体の一部分に大きな負担ができることで

他の部分の抵抗力が弱くなり、直接的に死亡の原因となる病気が起こる。

がんを予防するためには

1、禁煙

2、節酒

3、感染症の予防

4、肥満防止

5、適度な運動

6、胃の除菌(ピロリ菌)

といわれている。特に最後の胃の除菌はわが国でも進んでいるため

胃がんの根絶も夢ではないという。

もちろん、命に関わる病気は他にもたくさんある。

擦り傷一つとっても、どのような動きが体内で起こっているのか

専門家の解説付きで見てみると、よりわかりやすいのではないだろうか。

 

権力闘争と「禅」の心

出る杭は打たれる、とは古今東西同じである。

余り権力を持ちすぎると、いかに二心を持っていなくても

粛清されてしまうのである。

 失脚しなかった「親切な祖父」カリーニン

近代の国家で言えば、ソビエト連邦で絶大な権力を振るった

スターリン政権下、言語を絶する大粛清が行われた。

レーニン死後に権力を争ったレフ・トロツキーを筆頭に

同志たちに次々と「反革命」「スパイ」「無能」のレッテルを貼り

失脚させたのである。これにより、5人の元帥のうち3人が粛清されるなど

対独戦中でもどちらが敵味方かわからない状態となったほどである。

その粛清を主導したNKVDの長官を務めたニコライ・エジョフや

ラヴレンチー・ベリヤなどもことごとく粛清された。

「狡兎死して走狗煮らる」とはよく言ったものである。

しかし、その中で依然として権力を保持し続けたのが

ミハイル・カリーニンである。彼は、「オールド・ボリシェヴィキ」と呼ばれる

レーニン時代からの幹部で、スターリンが政権を握っても

失脚することなく、ソ連最高会議幹部会議長などを歴任した。

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ミハイル・カリーニン。国民からは「親切な祖父」と呼ばれた

スターリン政権の段階ですでに名誉職にいたため、脅威と見なされなかったようであるが

それでも大粛清の最中には、危険を顧みず救済の手を差し伸べたこともあったという。

ドイツ東プロイセンが戦後に、ソ連領となりカリーニングラードとなったが

名前はカリーニンからとられている。

カギは「権力欲」か

また、支那の国民党政権においても権力闘争が激しかったが

この時も、孫文時代からの古参党員・林森も失脚することなく

政治生命を全うした。

さて、このように彼らは闘争を生き延びた

というよりも、むしろ脅威と見なされなかったことが大きい。

つまり、権力欲やそれぞれの利害により争うことがなかったのだ。

この闘争は、この社会ではよくあることである。

グループができれば、どうしても主導権争いが起きる。

グループは個人の集まりで、それぞれが独自の価値観や自己達成感を持つからである。

周囲を平安たらしめたければ、己が平安であるべし

そこで僕は最近、一つの言葉を思い出した。

『禅-ZEN-』という映画がある。曹洞宗の開祖・道元にスポットを当てたものであるが

その中で

簡単に仏さんには出会えぬのだよ、人間は誰もがあれが欲しい

これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいと貪り、思うようにならぬと腹が立って

愚かなことをしてしまう。そのようなもので目隠しをしているから、仏が見えぬのだ

と諭すシーンがある。

また、北条時頼に招かれた時には

あなたが右手に権力を握った時、左手に苦しみを握ったのです。

執権とは、いみじくも権力にとらわれると書きます。

このとらわれこそが、あらゆる苦しみのもとなのです。

 と述べている。我が意を得たり、と思った。毎日毎日忙しく動き回っては

仕事だ党だと、自分と向き合うことが余りない。

禅宗の教えとは「只管打坐(しかんたざ)」に尽きる。

ひたすら座禅を組み、自らの仏と向き合う。自らの執着心を捨てる。

それにより、他者を受け入れることができ、余裕が出てくるのではないか。

自ら執着を捨て、平安であり続ける。それが他も平安にするのではないか。

その平安こそが、権力闘争を遠ざけ、人生を豊かにすることができるのではないか。

アップル創業者のスティーブ・ジョブスなど、禅に自らの在り方を求めた経営者は多い。

お寺では参禅会をやっているところが多い。

僕も一度は行ってみようかな、と思う次第である。

 

上皇陛下の御称号に関する一つの話題

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先日、君臣の発展を神宮にお参り申し上げ奉った

 

本年は天子様がご譲位遊ばし

元号が制定される年である。5月1日の東宮殿下のご即位に際し

臣下としてなお一層の忠勤に励む所存である。

 

上皇陛下の御称号について

 

さて、天子様がご譲位遊ばし、上皇陛下に御成り遊ばす。

いわゆる「天皇退位特例法」によれば

「前条の規定により、退位した天皇上皇となる」とあるからだ。

天子様は天皇陛下である。しかしてご譲位遊ばした後に「上皇」とお呼びするのは何故か。

もともとは「太上天皇」や「太行天皇」とお呼びした。それが略されて

太上皇」または「上皇」とお呼びすることとなったわけである。

意味としては、『史記』に「太上は無上なり。皇は徳、帝より大なり。

故にその父を尊び太上皇と号す」とあるのが答えと言えよう。

また、わが国においては「オリイのミカド」とお呼びしたり

「院」とお呼びしたことも多い。例えば「後鳥羽院」「後白河院」と

お呼びしたのである。百人一首でも知られていよう。

「仙洞」とお呼びすることもあるが、お住まいになる場所を指したのである。

皇太子殿下を東宮殿下とお呼びするのは、内裏の東側にお住まいになって

おられたのと同じように、お住まいになる仙洞御所が上皇陛下を示すように

なったのである。

治天の君」とお呼びすることもあるが、この時は「院政」を行い遊ばす時で

白河上皇に始まったとされている。

 

天子様へますますの忠勤を誓う

 

さて、天皇陛下を今や天子様とお呼びすることに何ら疑問のある人はおるまいが

そもそも、「天子」という言葉は『礼記』『書経』など枚挙に暇がない。

その他にも「万乗」「聖上」「至尊」といった支那的表現や

「スメラミコト」「スメラギ」「日御子」といった和風表現

「御門」「禁裏」など、お住まいになるところでお呼びすることがある。

折口信夫大嘗祭の本義』や河内春人『日本古代君主号の研究』などでも

その変遷などについて述べられているから、ご参考いただきたい。

また『漢書』には「上は天子と自ら謂うなり」とあって、よく時代劇で

将軍のことを「上様」というが、これは誤りで「上」と申せば天子様のことを言った。

(もちろん時代の権力者が違えば、意味が変わることもあり得るわけだが)

権力者でいえば、近代の君臣の関係を表す一つの例を出したい。

帝国議会において、貴族院の佐々木惣一議員がこのようなことを言っている

上に聖天子あり、下に愛國先覺の國民あり、又事務的に精勵の當局あり、斯くの如く上下一致して長年月の努力の結果、漸くにして成立しましたる所の帝國憲法が、其の發布以來今日に至る迄幾十年、是が如何に大いに我が國の國家の發展、我が社會の進歩に役立つたかは、茲に喋々する迄もありませぬ

上に天子様がおわして、下に愛国でかつ賢明なる国民がおる。そして勤勉なる当局が

いて、そのように上下が一致して長年の努力の結果成立した帝国憲法

わが国家や社会の進歩にいかに大いに役立ったかは、ここに断定するまでもない

という意味である。

誠にわが意を得たりの思いである。

この際において帝国憲法の是非を論ずるのは避けるが、しかしてわが国の

あり方は、根源のところで不変なのである。

実は名門だらけ!伊達家の家臣団

このブログにおいて、伊達氏のお話については何回か言及した。

そもそも伊達氏家中は、中央集権化というより

大身の家臣が多く、それらは石高と家格によって表されていた。

例えば、伊達政宗随一の側近の一人である片倉小十郎景綱の片倉家は

家格は一門、白石1万8000石を領し、白石城一国一城令の例外として残された。

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白石市では甲冑行列も行われる

また、同じく重臣として活躍した茂庭綱元も、家格は一門、松山(現大崎市)1万3000石を

領した。仙台藩自体の石高が大きかったこともあろうが

それにしても、分権化を進めることは家臣の発言力強化に繋がり

お家騒動の要因にもなり得るのである。

(実際、伊達騒動とよばれるお家騒動も、家臣団の権力闘争とみられている)

 

縁戚で勢力広げた伊達家

 

さて、なぜ家臣団はこれほどまでに力を持ちえたのであろうか。

伊達氏が奥州の覇者になった過程に、その要因を見ることができる。

伊達氏は政宗の代に限らず、その3代前の稙宗の時代でも

奥州の覇者たりえる領土を保有していた。稙宗は単に戦いによって

領土を拡張するだけではなく、近隣の諸大名と縁戚関係を築き

自らの影響下に治めたのである。

主な豪族だけでも

・大崎氏(奥州探題宮城県北を領する)

・葛西氏(桓武平氏の名門。宮城県東部を領する)

・亘理氏(同じく桓武平氏の名門。宮城県南部を領する)

が挙げられる。さらに、越後守護・上杉定実に息子の実元を養子として送り込もうとした。

しかし、相馬氏に対して領土割譲も進めていたことから、嫡子・晴宗をはじめとする家臣の

猛反発に遭い、周囲の大名を巻き込んで「天文の乱」が発生する*1

この乱は、幕府の調停により、稙宗の隠居で収束するが

伊達氏の影響力は著しく衰退してしまった。

しかし、この縁戚による拡大路線は政宗まで続くこととなる。

それに加えて、政宗は家臣を召し抱えることに意欲的だったから

各地の浪人や改易された大名が伊達氏を頼ることが多かったようである。

お隣、山形58万石を治めた最上氏は、伊達氏と血縁関係*2にあったから

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山形城跡。最上氏改易の後は小規模な藩が治めるようになる

最上義俊の代で改易されると、その家臣の多くは伊達氏に召し抱えられた。

小野末三氏『羽州最上家旧臣達の系譜』によると、「それまでの両家の深い結びつき

から、でき得る限りの救済の手を差し伸べたものと思われる」と述べており

氏家常継や伊良子氏といった名の通った家臣のほか、関ヶ原の合戦で東軍に寝返った

脇坂安治の弟の安景も伊達氏に再仕官している。

また、山形ではないが松前藩松前慶広の七男・安広も伊達氏で仕官しているし、最上義光と争って敗北した

天童頼澄も伊達氏に再仕官し、その子孫は重臣として活躍した。

さらに、武田信玄の父・信虎の十男重次も仕官しており、各地の名族の血筋が生きているのだ。

 

南朝の忠臣も伊達家に仕官

 

さて、その中で注目したいのが、白河義親の存在である。白河氏は奥州の名門中の名門。

下総結城郷に住んだことから結城氏を名乗り、祐広の時代に白河城(福島県白河市)を居城としたため

白河氏を名乗った。その子の宗広は南北朝時代南朝方として活躍し

北畠顕家が奥州鎮守将軍として統治を始めると、式評定衆の一人に任じられた。

まさに、伊達氏と並ぶほどの名家なのである。

しかし、義親の時代に豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となり

浪人となっていたところを伊達氏に召し抱えられた。

領地は鬼首(大崎市)1000石を領した。

 

名門の矜持は衰えない、白河の戦い

 

注目すべきはその後である。義親の9世後の当主・邦親の代に

戊辰戦争が勃発、東北にもその戦火が及んできた。

新政府軍を迎え撃つ奥羽越列藩同盟が重視したのは、何を隠そう白河城である。

関東と東北の境目でもあり、奥州街道の要衝に位置するこの城は

何としても守らなければいけない地であった。

当時、白河城天領となっており、二本松藩が管理していたから

あっさりと同盟側に接収された。

邦親は、この時先陣に立つべく出陣し、3個小隊らと白河に赴いた。

この時、「殿のご帰還」ということで旧家臣の子孫約170人が馳せ参じたそうだ。

木村紀夫氏『仙台藩戊辰戦争 幕末維新人物録282』によると

「旧主の末裔が来たと旧蔵の武具に身を固めて馳せ参じ先鋒となり戦った」

とある。士気は天を衝かんばかりであり、白河城を守護する同盟軍3000人、大砲

10門の大部隊が死守の構えを見せた。

慶応4年5月1日に新政府軍の攻撃により始まったこの大激戦で

仙台藩はわずか一日で参謀・坂本大炊と軍監・姉歯武之進ら高級指揮官や

約100人が死傷するなど大損害を被り、白河城は落城してしまう。

それでも同盟軍は、会津藩家老の西郷頼母指揮の下

白河城を一時奪還するなど、総力戦を展開したが

新政府軍の増援もあり、撤退を余儀なくされた。

白河から撤退した白河邦親は、秋田藩の寝返りに対応すべく秋田口に転戦した。

戦後、家臣たちの食い扶持がなくなると

邦親は田畑や家宅を全て売り払い、家臣に分け与えた。

その子の基広は、伊勢結城神社宮司として宗家・結城氏の祭祀を守ったほか

軍人として陸軍士官学校教官となったという。

主家に報いるその忠義、家臣に報いる恩義はさすが名門白河氏

といったところであろう。こういうエピソードがあるから伊達氏の勉強は

やめられない。読者諸氏も地元の領主の歴史を調べてみてはいかがだろうか。

きっと、おもしろい発見があるはずである。

*1:伊達氏の家紋「竹に雀」はこの時に上杉氏から送られたという

*2:政宗の母が最上義光の妹

厳しいばかりではない!施設も充実していた兵営生活

昨日、僕の祖父が満州事変に従軍したことは述べた。

今回は、兵営について述べようと思う。

先日書いた通り、わが国では徴兵制があったため

誰でも疾病などがない限り、兵役につくことになっていた。

兵役法によれば、現役兵は2年となっている。

つまり、1年目は二等兵として軍隊の基礎を学び、体力を鍛え

2年目は一等兵に昇進して除隊となる。その中でも優れた成績を残した者は

上等兵に進級する。希望者は、下士官任用教育を経て軍隊に残ることが可能。

不思議なのは、僕の祖父の場合、1月に入営して7月に一等兵、一年で上等兵

なっている。ちょっとした謎だったりする。

仙台に司令部があった第二師団の中核を成した歩兵第四連隊は、兵舎がそのまま

残されていて、仙台市歴史民俗資料館として活用されている。

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当時の兵営における生活風景が再現されている

寝台を中心に撮影したが、銃置き場や戦時中の新聞も展示されていて

とても興味深い。この兵舎がある榴ヶ岡公園は、敷地が広いだけではなく

丘のようになっていて、伊達政宗仙台城を築く際、候補地の一つであったと伝わる。

先日、祖父が支那事変で負傷したと書いた。そのタイミングが不幸中の幸いであったというのは

対米英戦でガダルカナル島の戦いで、歩兵第四連隊2458人のうち、1906人が戦死したという

事実からしても、非常に厳しい戦いであったことを示している。

とはいえ、戦時中でなければ兵営の生活というのも(私刑というものがなければ)

決して悪いものばかりとも言えない。三食給料付き、医療・娯楽・福利厚生施設完備

ってわけばかりではなく、社会的な地位も高かったという。

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機関銃を用いた教練の様子。和気藹々とした様子が微笑ましい

日常の教練風景がアルバムに残っていたので一部をご紹介する。

十一年式軽機関銃と思われるが、もちろんいきなりやれ!となるのではなく

マニュアルがきちんと準備されていて、その上で実際に操作してみるわけである。

このようにさまざまな教練が施され、最後に演習を行って成果を師団長に見ていただいて

終了というわけである。

祖父は2年で下士官適正証書を交付されて満期除隊し、すぐに応召となった。

ちょうど満州事変が始まったからである。それからは昨日のブログの通りだ。

なお、背後に見える白い建物が現在の仙台市歴史民俗資料館である。

詳しい兵営での生活を知りたい方は、藤田昌雄氏「写真で見る日本陸軍兵営の生活」

に詳しい。非常に参考になるので、オススメだ。

 

写真で見る日本陸軍兵営の生活

写真で見る日本陸軍兵営の生活