白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

気を付けろ!仙台人に伊達家ディス

今年、仙台藩祖・伊達政宗公の生誕450周年を迎えるということで
仙台市ではさまざまなイベントが目下開催・企画中である。
僕も仙台市民として、政宗公の「貞山政宗公遺訓」を部屋に飾るほど敬愛しているが
ところで、政宗公はさまざまな呼び名があることはご存知だろうか。
現在、われわれは「政宗公」「伊達政宗」で普通に通じる。
が、そもそも「政宗」というのは諱であるから、おおやけには慎む呼び方であった。
そこで、政宗公を指す呼び方はいろいろと著されている。

有名なのは「貞山公」である。仙台藩主は、薨去した場合「山号」が付いたから
政宗公の山号である「貞山」が政宗公を指すのである。
ちなみに「貞山掘」は水運のために整備した運河であるが
政宗公時代には完成しなかった。だが、後に政宗公の功績を称える意味で名付けられたわけだ。


ところで、仙台藩主を指す呼称はといえば
「仙台宰相」…宰相とは、総理大臣のことではなく、参議の別名である。政宗公以降参議に任じられる藩主はなかなか
出てこなくなり、最後の慶邦公まで待たなければならない。従って、「仙台宰相」といえばこの2人のいずれかを指す。
「松平陸奥守」…松平といえば、徳川家の一門にあたる家柄ということであるが、功績著しい武将にも松平の姓を
名乗ることを許した。つまり「松平氏」は大勢いるわけだが、伊達家は陸奥国主であることから
陸奥守の独占が許可され、それ以外の大名家では陸奥守を名乗ることは許されなかった。
最も、政宗公の次男・忠宗公の正室には徳川家から振姫を迎えたわけで
徳川家の親族でもあるのだが。


ところで、桜井誠氏が以前「伊達政宗は実は戦は下手だった。しかし内政は非常に有能だった」と
評したことがある。少しばかり異論を述べたい。
確かに、大崎合戦において伊達勢は黒川晴氏の裏切りにあい、敗北に近い和睦を強いられたり
人取橋の合戦では、多勢の佐竹・芦名連合軍に苦戦した。
だが、摺上原の戦いで芦名氏を叩き潰し、慶長出羽合戦においては上杉景勝に攻められた
山形の最上義光に援軍を送るとともに、自身は福島に侵攻しているのである。
さらに大坂の陣では、後藤又兵衛を打ち取るなどの活躍を見せている。
もちろん、伊達家には伊達成実片倉景綱・重長親子、茂庭綱元、遠藤基信など
まさに粒ぞろいの家臣団の存在も大きい。
伊達家ほど文武のバランスの取れた家臣団もなかなかおるまい、とかなりの自信を持っていえる。


ここまでつらつらと書いてきたが
いかに仙台人が政宗公を誇りに思っているかご理解いただけるであろう。
ぜひ仙台人に伊達政宗の話題を振る時は
くれぐれもディスることのないよう、気を付けてほしい。

仙台空襲に学べ!

昨日、7月10日は昭和20年に仙台空襲が行われた日である。
戦前から仙台は東北鎮台が置かれ、第2師団司令部の拠点でもあった。
師団は、ケースにもよるが1〜2万人からなる。
また、陸軍幼年学校・東北帝国大学など、学術機関も充実しており東北地方の要の都市であった。
さらに、大規模な航空機組み立て工場、弾薬工場など、産業面でも極めて大きな役割を果たしていた。


昭和20年7月9日、マリアナ諸島から飛び立った第21爆撃機集団の123機のB-29
10日未明、高度3000メートルから仙台市に侵入、一斉に焼夷弾を投下した。
これに対し、わが防衛部隊は高射砲約14門のほか、約10機が迎撃に離陸したものの
高高度を飛行する敵爆撃部隊に有効な反撃手段は限られており
米軍の作戦報告書によると「攻撃したきたのはわずか1機だった」と記されている。
ともあれ、米軍の爆撃隊にはほぼ反撃できず、仙台は一夜にして焦土と化した。
特に仙台市中心部は壊滅的被害を受け、一番町・国分町周辺は特に被害が多かったようだ。
これにより、伊達政宗公の霊廟である国宝・瑞鳳殿は焼け落ち、何より貴重な命が失われた。
仙台市社会課による調査では死者828人としているが、戦後の調査では2700人を超えるものもあり
その幅は大きい。というのは、仙台に在住していた者の中で、仙台に住民票がなかった人もいたからである。
また、仙台では「公会制度」を導入しており、これは隣組組織のようなものであるが
それに入っていない人もいたようである。

その後も、女川町や松島町など、宮城県内の沿岸部を中心に艦載機による空襲が
頻発し、終戦までのおよそ1か月間、東北地方は断続的に敵機の姿に脅かされることになった。
岩手県釜石市では、何と艦砲射撃も行われており、もはやわが国には
都市部をまともに防衛する能力が残っていなかったことが如実に表れている。


もちろん、これらは戦争犯罪である。
指揮官は処罰されていないどころか、米国ではわが国に対する無差別空襲を
擁護する声さえある。とんでもない話だ。
確かに国土を防衛する責任は政府と軍部にある。しかし、無抵抗である
一般市民を虐殺することを正当化することはできない。
もちろん、戦後70年以上が経った今、米国に戦争犯罪を問うことの難しさは承知している。
しかし、この明らかな戦争犯罪についてわれわれが語り継ぐことによって
犠牲となられた方々が少しでも浮かばれるよう祈っている。
ここで大事なのは、戦争のない世界だとか無抵抗主義だとか非現実的な話ではない。
二度と我が国土の上空に敵機が侵入できない防備体制の構築である。
シナの度重なる領空侵犯、北朝鮮のミサイル問題など脅威は目の前にある。
今こそ、憲法9条のくびきから解き放たれ、防備を厚くすることにより
都市への空襲といった悲劇を断ち切るべきである。
それが、われわれの世代に課された使命なのだと、強く考えている。

仙台空襲に学べ!

昨日、7月10日は昭和20年に仙台空襲が行われた日である。
戦前から仙台は東北鎮台が置かれ、第2師団司令部の拠点でもあった。
師団は、ケースにもよるが1〜2万人からなる。
また、陸軍幼年学校・東北帝国大学など、学術機関も充実しており東北地方の要の都市であった。
さらに、大規模な航空機組み立て工場、弾薬工場など、産業面でも極めて大きな役割を果たしていた。


昭和20年7月9日、マリアナ諸島から飛び立った第21爆撃機集団の123機のB-29
10日未明、高度3000メートルから仙台市に侵入、一斉に焼夷弾を投下した。
これに対し、わが防衛部隊は高射砲約14門のほか、約10機が迎撃に離陸したものの
高高度を飛行する敵爆撃部隊に有効な反撃手段は限られており
米軍の作戦報告書によると「攻撃したきたのはわずか1機だった」と記されている。
ともあれ、米軍の爆撃隊にはほぼ反撃できず、仙台は一夜にして焦土と化した。
特に仙台市中心部は壊滅的被害を受け、一番町・国分町周辺は特に被害が多かったようだ。
これにより、伊達政宗公の霊廟である国宝・瑞鳳殿は焼け落ち、何より貴重な命が失われた。
仙台市社会課による調査では死者828人としているが、戦後の調査では2700人を超えるものもあり
その幅は大きい。というのは、仙台に在住していた者の中で、仙台に住民票がなかった人もいたからである。
また、仙台では「公会制度」を導入しており、これは隣組組織のようなものであるが
それに入っていない人もいたようである。

その後も、女川町や松島町など、宮城県内の沿岸部を中心に艦載機による空襲が
頻発し、終戦までのおよそ1か月間、東北地方は断続的に敵機の姿に脅かされることになった。
岩手県釜石市では、何と艦砲射撃も行われており、もはやわが国には
都市部をまともに防衛する能力が残っていなかったことが如実に表れている。


もちろん、これらは戦争犯罪である。
指揮官は処罰されていないどころか、米国ではわが国に対する無差別空襲を
擁護する声さえある。とんでもない話だ。
確かに国土を防衛する責任は政府と軍部にある。しかし、無抵抗である
一般市民を虐殺することを正当化することはできない。
もちろん、戦後70年以上が経った今、米国に戦争犯罪を問うことの難しさは承知している。
しかし、この明らかな戦争犯罪についてわれわれが語り継ぐことによって
犠牲となられた方々が少しでも浮かばれるよう祈っている。
ここで大事なのは、戦争のない世界だとか無抵抗主義だとか非現実的な話ではない。
二度と我が国土の上空に敵機が侵入できない防備体制の構築である。
シナの度重なる領空侵犯、北朝鮮のミサイル問題など脅威は目の前にある。
今こそ、憲法9条のくびきから解き放たれ、防備を厚くすることにより
都市への空襲といった悲劇を断ち切るべきである。
それが、われわれの世代に課された使命なのだと、強く考えている。

同じ「田中」でも対極な二人

本日より、東京都議選がスタートした。
相変わらず有力会派のみがクローズアップされているわけだが
日本第一党の岡村幹雄候補もまた、志を持って戦っている人である。
今は泡沫かもしれないが、いずれ真の政党としての真価を発揮することが
できると確信している。


さて、地方議員というのは国政と直接関係がないため
より地域のことを知る必要がある。
そのためには、「このまちをこうしていきたい」という
明確なビジョンを持ち、高い志を持って有権者に訴えることが重要だ。
そして、それをどのように多くの人に発信するか。
周囲も当然だし、候補者本人もよくよく勉強しなければならない。
もちろん、ある程度の地方行政への知識も必要となる。
地方行政は、教育・子育て・医療福祉・建設・商工業・農水産まで多岐にわたる。
市長選によく元職員などが出馬することがあるが、多くの場合は副市町村長や総務部課長だったりする。
これは、市長に次ぐ権限も持つだけではなく、様々な分野に関わるエキスパートだからである。
首長になる人は行政との関係が円滑に進めることが最低条件として求められる。
従って、身内が首長となれば関係が悪化することもないというわけだ。
珍しいのは、田中康夫長野県知事で、あの人ほど職員とやり合った人はいないのではないか。
それでも田中元知事が長期政権を保てたのは、住民に圧倒的な人気があったためである。
例えば、挨拶回りで県のお偉いさんに名刺を渡した時
「知事ねえ、社長が社員に名刺を渡すのは潰れる会社ですよ」
と言い放ち、田中知事の名刺を折り曲げてしまった人がいた。
それが報道されるや否や、県庁には苦情が殺到。当のお偉いさんは、辞任を表明したが
田中知事に慰留され、「田中旋風」とも言える状態が発生した。


一方、公務員出身でもないのに行政と円滑に事を進めたのは、田中角栄である。
彼は「できることはやる、責任は全て私がとる」と公言し
部下の学歴はもちろん、何期卒で順位まで覚えたほか
実際に「できる」「できない」を明確にした人でもあった。
誰かが何かをお願いに行くと、話を聞いてすぐに手を打つ。
余計な話をすると「早くしろ」と怒られたそうだが、これは実行力の高さを表している。


同じ田中姓であっても、これほど対極の性格をした二人だが
どちらが正解であるということはないだろう。
結局のところ、いかに国民・県民のためになったかということに尽きる。
これから、選挙のラッシュである。ぜひ、候補者の皆さんは
行政との付き合い方や、部下の活用方法も考えながら選挙戦を戦ってほしい。

人材を活用するということ

「子皮は子産を達せり」という言葉をご存知だろうか。
これは孔子の言葉で、子皮を高く評価したものとしてよく知られている。
子産も子皮も、支那春秋戦国時代の政治家である。鄭の国の大夫であった。
鄭は、周王朝を中心とする中原にある国で、爵位も高い国であるが
北に晋、南に楚という大国に挟まれ、事あるごとに右顧左眄することを余儀なくされていた。
そのような中で誕生したのが子産である。
もともと子産は父が大臣であったから、そのあとを継ぐのは自然な流れなのであるが
鄭では権力闘争が頻発したため、大臣(卿)の座が巡ってくるのは遅かった。


ここで初めて子皮の名前が出てくる。正卿(首相)であった子皮は、子産の才能に目を付け
あっさりと正卿の座を子産に譲り、自らは大夫となった。
さて、子産が大臣として着手したのは、晋と楚の講和である。
即ち、鄭が両国に挟まれているなら、逆にその立場を利用して仲介に入ったわけだ。
また、内政面においても、農地改革・税制改革などさまざまな新制度を実施した。
軍事面においては、隣国の陳を電光石火のごとく征服するなど、子産の名は天下に轟いた。
が、改革は反発を生む。
次々と出される制度に国内から怨嗟の声が出始めると、それに便乗して
子産を権力の座から引きずり落そうとする政敵が出てくるものである。
そこで活躍したのが、子皮であった。彼は子産よりも名門かつ立場は上である。
子産討伐の陰謀を知り、子産が亡命しようとしていると聞けば
子皮はその政敵のもとに乗り込み「お前は鄭を滅ぼす気か!」と陰謀を止めさせ
子産には帰国するよう説き伏せた。
その後も、子産に攻撃の矛先が向かう時は、子皮が盾となって守った。
子皮は人望が厚く、政界では重鎮であったから、あえて逆らおうという愚者はいない。
子皮が庇護者である間、子産は存分に腕を振るうことができた。


孔子は、この子産の功績はもちろんだが、子皮の子産を重用した点について高く評価し
「子産と管仲(斉の名宰相)は優れた人物である。しかし、彼らは子皮や鮑叔(管仲を推挙した大夫)のように
優れた人物を用いていないではないか」と述べている。
孔子はある意味捻くれた人物であるから、このような見方をするのは彼らしい。
だが、国家百年を考えるならば、人材という面に着目した孔子の観察眼はさすがというべきだろう。
私も子皮のようにはいかないかもしれないが、多くの埋もれた人材の能力を引き出し
活躍してもらいたいと思っている。

あきつ丸の乗組員は海軍?陸軍?

大東亜戦争といえば、太平洋を戦場にしていたこともあって
独ソ戦などと比べても、海軍にスポットが当たりがちである。
島しょ戦を展開するに当たって重要なのは、制海権だからだ。
帝国海軍といえば、世界で2位の規模を誇り、緒戦では米国・英国どころか
それらの連合艦隊に対しても圧倒したことでも知られる。


ところで、あまり知られていないことだが、帝国陸軍も軍艦を運用していたことは
ご存知だろうか。大発や小発といった上陸舟艇のことではなく
現在の強襲揚陸艦の先駆けともいえる上陸舟艇母艦「神州丸」や「あきつ丸」である。

Wikipediaより、昭和19年改装後のあきつ丸)


あきつ丸は昭和17年竣工した陸軍の軍艦で、排水量はおよそ9000トン
全長は150メートルにも達した。大発を最大27隻搭載可能で
飛行甲板を備えており、航空機の発着艦も可能という、極めて多機能な軍艦であった。
これまで、敵地への上陸というのは将兵が輸送船に乗り込み
目的地まで海軍に護衛してもらうことがセオリーだった。
軍歌「歩兵の本領」で「しばし守れや海の人」とあるのは、このことを指す。
しかし、わが国はシーレーンを軽視したがため、海軍の護衛艦だけでは
敵潜水艦などに狙われる輸送船をカバーすることはできなかった。加えて、陸海軍の連携は乱れに乱れ
陸軍では独自で輸送船と護衛艦の機能を担う軍艦の必要性に迫られたのである。
あきつ丸は、蘭印作戦に従事、陸軍の快進撃の一翼を担ったが
その後はもっぱら輸送任務に従事し、昭和19年11月五島列島沖において敵潜水艦により撃沈された。


主な艦歴と概要は以上のとおりだが、気になるのは乗員であろう。
乗員は海軍なのか、陸軍なのか、というところは非常に気になった。
そこで調べてみると、あきつ丸や神州丸といった軍艦は、平時においては
上部構造を設置し、商船として運用されていたようである。
両艦ともに所属は日本海運とされ、他の商船と同様、戦時となれば
乗組員はそのまま軍属として勤務する。つまり、乗組員は平時では民間企業の社員だが
戦時となれば軍人に准ずる扱いを受けており、そのために企業は補助金を支給されていたのである。
しかし、軍属だといっても敵は容赦などしてくれない。
あきつ丸だけでなく、多くの商船が輸送船として徴用され、多くが乗員とともに沈んだ。
トラック島では、今でも多くの船が沈んでおり、それらは引き上げられずに漁礁となっていることから
ダイビングスポットとしても知られている。
総力戦を表す一つのケースが、このあきつ丸を始めとする商船群の悲劇であるといえよう。

人気脚本家が経験した「いじめ」とジレンマ

僕が「好きな脚本家」を挙げるとしたら
真っ先に思いつくであろう方が、岡田磨里さんである。
「心が叫びたがってるんだ」「あの時見た花の名前を僕たちはまだ知らない」をはじめ
様々な作品の脚本を手掛け、一筋縄ではいかない生々しい表現に定評がある。
「マリーの時点で不穏」などはよく言われている。
その岡田さんが、自らの半生を描いた
「学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで」
を上梓した。

本書では、岡田さんが登校拒否児童だった中学校から
大ヒット作を生み出すまでの過程を描いている。
僕は、これを読んでいて、胸が痛くなった。
岡田さんは小・中学生と極めて思慮深い子どもだったようであるが
そのためにさまざまな不安も抱えることになってしまった。
すると、クラスでも浮いた存在になってしまうのは目に見えている。
そのような少女がいじめの標的になるのは難しいことではない。
その辛い時期に手を差し伸べるべき大人がおらず、親御さんも厳しかったことが不幸に拍車をかけた。
岡田さんはそうやって育った。
「あの花」で主人公のじんたんは登校拒否の生徒で、近所の目を気にしながら生活しているが
これは岡田さんの経験をもとにしているという。
岡田さんはその少女時代を極めて比喩的でありながら、ストレートに描いている。
この文章力には心から唸らされた。


極めて難しいのは、その経験が作品に活かされ、多くの人に影響を与えたが
不幸な少年少女時代は、やはりないほうが良いのではないか。
しかし、その経験がないと名作が生み出されることはなかったかもしれない
そんなジレンマが我々に問いかけられることである。


子どもは、親を選ぶことができない。
アラブの富豪の家に生まれるかもしれないし
アフリカの難民キャンプに生まれるかもしれない。
しかし、後者であろうと子どもは生まれた境遇に文句をいうことはあまりない。
なぜか。
モラル・マゾヒズムといって、子どもはそもそも生まれた境遇そのものに
不満は持たない。例えば「何でうちは貧しいの?」という疑問は出てくるにせよ
子どものうちから「何でこの親から生まれたんだろう?」という不満はまず出てこない。
だからこそ、その子どもを育て上げる義務が親に生じているのだ。


一方、岡田さんと違い不幸な終わり方をするケースもある。
仙台市では、この3年間で3人の中学生が自ら命を絶った。
いずれもいじめを苦にしての自殺。
非常に悲しい出来事である。13歳の若い命が失われてしまったのだ。
しかし、誠に残念なことに、教育学をかじった人間なら習うことだが、いじめは無くならない。
社会において、異質なものを排除するというのは本能だからである。
最近では「スクールカースト」という構図が適切であろう。
「いじめをなくそう」と学校は標語を掲げる。しかしその学校がいじめはなくならないものだと
わかっているのである。理想は結構だが、現実に向き合うことを拒否しているともとれる。
ではどうすればいいか。いじめの実態を素早く把握し、いじめられている生徒のケアを
適切に実施することである。
生徒を孤独にせず、生きがいを見つける手伝いをすることだ。
これは単に教員に多くを求めるだけではない。地域や他の家庭を巻き込んで
生徒との交流を日常的に行うことも重要といえる。デュルケームの「自殺論」によれば
社会的につながりが深ければ自殺率は低下する。増してや外部の人であれば
スクールカーストなど関係ないのだし、課外活動にもなる。コミュニケーション力の向上にも役立つ。
岡田さんの半生を描いた本書を読み、僕はこの思いを強くしたのである。